http://mitsukaidou.com
日本キリスト教団 水海道教会 サイトマップページへ プライバシーポリシーページへ
トップ 教会の紹介 牧師の挨拶 教会学校 キャンプ リ ン ク メール
教会からのお知らせ
最近のトピックス
教会学校ニュース
グループのニュース
牧師の部屋
副牧師の日誌
教会員のエッセイ
キャンプニュース
地区教区ニュース
今週のお花

記事一覧

「文章を書くということ」     加藤 久幸牧師

ファイル 129-1.jpg

先日、「どうやったら文章が書けるか」ということが話題になりました。大抵の人は文章を書くことに四苦八苦しているのでしょうが、そこに居たある人曰く「子どものころから作文で苦労したことがない」と。一同!!?? 皆さんはどうですか?
 
昨年、水海道教会「創立110周年記念文章」を発行することができました。その時、「『原稿を書きなさい』と言われたら(強要されたら)『教会をやめますよ』」と言った人がいるとかいないとか、冗談とも本気ともつかぬことまで、伝わってきました‥。
もともと私自身原稿を書くことが苦手ですので、強要するつもりなど毛頭ありませんでした。

私は、若い頃から身を削るようにして文章を書いてきました。美辞麗句を並べようとしたり、文字を埋めてその場をやりすごすというふうにも考えることはできませんでした。

自分の経験したこと、自分の内にあるものしか、語れない&書けないということも、事実として了解していました。となると、「自分は空っぽだ」とか「自分の内はぐちゃぐちゃで収拾がつかない」ということも考えてしまいます。

でも、そう言う時というのは、必ず「格好いいこと」とか「見栄えのするもの」とかに、目を奪われています。
そこで、「産みの苦しみ」さながら、彷徨(さまよ)うようにして書いてきました。

ところが、ある時から、もっとありのままの自分を見つめ、内なる自分を受け容れ書いてよいのだと思うようになりました。

梅のつぼみが膨らみ始めています。私たちは、小さな一つのつぼみに目を留めることにおいて、梅の木全体の命を感じて、そして、来るであろう春の世界を、息吹を受け止めていきます。

文を創るということも、このような営みに似ています。文を作るというのは、小さなことであっても自分の経験や内面の姿を受け止め、自分を創る大事な営みとして、あるのでしょう。「文は人なり」です。

「あなたのすることのほとんどは無意味ではあるが、‥そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである。」(インド独立の父マハトマ・ガンシ

祈りは呼吸          加藤 久幸

ファイル 122-1.jpg12月11日、日本漢字能力検定協会が、09年の世相を最も反映した「今年の漢字」に「新」が選ばれたと発表した。昨年も同様のことをこの欄で取り上げたのだが、覚えておられるであろうか? 08年は「変」であった。「変」→「新」→2010年は、どんな世相、漢字になるのだろうか? 今年を振り返り、新年を想う季節になった。

毎日新聞の「発信箱」(12月20日)に、藤原章生さんの「祈っている人は違う」という文があった。あるルワンダ人との出会い一―「ゲリラ時代のひどい経験からか、彼は急に泣きだすことがあった。その度に聖書を片手にぶつぶつと祈っていたが、当時の私は宗教に偏見があり、「あっちでやれ」などと思っていた。だが、その後祈りに関心を持つようになり、よく彼の姿を思い出した。」という。 

そのコラムは次のように続いている。
「『やはり祈っている人は違います。』 バチカンのグレゴリアン大で教会法を教えるイエスズ会の神父、菅原裕二教授(52)と話した際、『仕事が忙しくて、祈る時間が足りない』とこぼす姿が印象的だった。 

5分も5時間も同じに思えるがそうでもないらしい。一日の多くを祈りに充てる人は、「視線が優しく、存在に軸がある」そうだ。『祈りは奉仕に比べれば何も生みださず無駄に思えるが、神の前で自分の小ささを確かめる時間であり、それが人を変える。』 

12月、聖職者は華やかな場を避けるのは基本に返り、祈るためだという。奈良県天川村の修験者、山口神直師(80)からも以前、同じような話を聞いた。『お日様に手を合わせたり、小さなことに感謝する祈り。戦後、そんな祈りを捨てたのが今の日本人の問題なんです。』」

あの、イエスは、よく、ひとりで祈っていたという。どこで、そんな時間が?と思う。イエスにあっては、祈りは「呼吸」のようなものであったのであろう。祈りのスタイル、リズムは様々である。しかし、「呼吸」のように、祈りを失うと、私たちも死に瀕すると想う。

2010年、私たちの生の実相を反映する漢字が、いくばくかでも、「祈」となっていることを願う

森繁さん『人の世の主役は歳月』

ファイル 113-1.jpg

森繁久弥さん11月10日死去。96歳。ラジオ、映画、舞台、歌と戦後の芸能界で多彩な活躍をされた方であった。

森繁さんの語りを、久世光彦さんがつづった「大遺言書」(新潮文庫)。その中に「演 技の上で映画や芝居を見て学ぶことは、まあ、ありません。実際の人生の方がはるかにおかしいし、切ない」という言葉がある。

これを紹介する毎日新聞「余録」氏は、「虚実の境界を往環し、『人の世の主役は人間ではなくて歳月です』と達観していた森繁さん」と評している(11月13日)。

森繁さんの達観にはほど遠いが、「人の世の主役は歳月」との言葉が、魂に響く。私たちは同じ時間を等しく生きているように思っているが、実は一人ひとりの人生の「時計」「時」は違うのではないかと思うことがある。

11月14日、昨年7月25日に23歳で召天した青年の記念会がある。仲の良かった妹さんは、「一年が過ぎ、少しは前を向いて歩けるようになったかな…と思いますが、また思い出しては悲しみ…涙を流し。その繰り返しです。」とつづっている。

そして、ご両親は今年から中国で日本語教師をしておられるが、14日の朝電話をいただいた。「(息子の死に)向き合うというより、ようやく背負っていこう」「(目の前にいる中国の若者に)息を吹き込んでいこう」っていう感じになりつつあることを静かに語ってくれた。

関わりながら、共に歩むことも、その人の気持ちになることもできない。その人の人生の歩みは、その人のものなのだ。

牧師という生業(なりわい)は、世の現実と神の世界の境界を往来するようなものでもある。森繁さんの「人の世の主役は歳月」の言葉に共感を覚える。達観しながら、いや、達観することができるから、人の世の、一人ひとりの人生劇場の切(せつ)なさや可笑(おか)しさ、涙と笑いを、よく知っていたのではないだろうか。

世の歳月、一人ひとりの「時」を統(す)べおさめる方がいることを、魂を鎮め思いめぐらしたい。

わたしたちは駅伝の走者

10月10日の水海道教会学園の運動会を見ながら、「キリスト教保育」10月号の次の文を想い起こしました。

「走りぬこうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスをみつめながら。」(ヘブライ書12・1~2) 

保育園、幼稚園は園児も共に走るマラソン集団です。誰が一番速いかを競うのではありません。全員が走り抜きゴールに到達するために、共に励まし合い、助け合いながら走ります。

私たちのペースメーカーとして先頭を走っておられるのが、主イエス・キリストです。私たちが疲れたら、ペースを落としてくださり、私たちが落伍しそうになれば励ましてくださるペースメーカーです。

私たちは皆、主イエスの背を見つめながら走るのです。主イエスの背。私たちのために鞭打たれ、十字架を背負われた背です。私たち一人ひとりのいのちが、神の子のいのちと釣り合う重さを持っていることを物語る背です。」

引用が長くなりますが、執筆者の井ノ川さんは、その後で、イザヤ書52・12も引用しています。「あなたたちの先を進むのは主であり、しんがりを守るのもイスラエルの神だから。」

水海道教会の創立110周年記念集会が間近になりました。私たちの歩みと教会との関係は、「駅伝」のイメージに近いかも知れません。

先人たちが繫いできた「たすき」を受け継ぎ、私たちも走り出します。託された期間、それは山あり谷ありの区間であるかも知れません。人により、長い短いの違いもあります。

しかし、私たちは、自分一人だけが走っているのではないことを知っています。私たちは、ゴールに向かって、自分の馳せ場を、自分のペースで走り、次に「たすき」を託す。それで十分なのではないでしょうか。私たちの「駅伝」のゴールには、どのような光景が待ち受けているのでしょうか。

この「駅伝」に譬えるイメージについてはいつかまたお話したいと思いますが、今私は、110周年記念が、「たすき」の中継地点なのか、給水地点なのか、特別の声援を受ける地点なのか、様々に想像しながら、記念集会のその日を楽しみに待っています。

よき出会いと交流を・・・        加藤 久幸

ファイル 93-1.jpg少し先の話になりますが、9月に神学校と教団で、各々大事な会合があります。

農村伝道神学校と台湾の玉山神学院は、毎年2名ずつ学生を派遣し、各々の国内で実習する、交換プログラムを続けています。また、両神学校の連携や研究を分かち合うために、合同の教師研修会が企画されてきました。

前回は日本で、今年は9月中旬に台湾で開催することになりました。私は、この開催を楽しみにしていましたが、私自身の予定から判断して、今回は参加を断念せざるを得ないことになりました。

9月1日~3日、第40回日本キリスト教団開拓伝道協議会(略称「開伝協」)が、新潟で開催されます。昨年の協議会をお手伝いしたご縁から、今回の実行委員長を私が引き受けることになりました。

今回は、新潟中越地震や新潟中越沖地震などの被災で経験したこと、考えたこと、始まったことを、共有したいと考えています。

3日間バスをチャーターして、共に旅をします。昼間はかなりハードな日程になるかも知れませんが、宿に着いた後は夕食と親睦のみとなります。

今までですと、牧師の参加がほとんどで、かなり難しい議論も多くあったのですが、今回は、参加者の各々の現場での働きについて、参加者が一緒に考えることができればと、願っています。そういう願いを込めて、主題は「ここからいっしょに―想像力を創造力へ」としました。

今回開伝協の紹介をしましたのは、2つ理由があります。①この会が、地方の宣教や牧会について地道に取り組んできた、自主的な協議会であるからです。②特に、今回は、地元開催で、私たちが覚えてきた新潟の被災地と人々を訪ねる旅となります。

9月の初めという時期ではありますが、関心ある方の参加をお待ちしています。案内は教会にあります(締切は7月末)。詳しくは牧師まで。

二つの会合が、準備も含め、導かれますように。これからの宣教のために、良き出会いと交流がなされますように、祈るものです。お覚えください。

「目に青葉・・・」          加藤久幸牧師

目に青葉 山ホトトギス 初鰹ファイル 77-1.jpg
(めにあおば やまほととぎす
はつがつお)-山口素堂.句-

少年・青年時代はほとんど体育会系のノリであった私が、ガラにもなく、突然この句を思い出した。

結婚生活を始めて間もない5月、「夕食に何を食べたいか?」と新妻に聞かれ、初夏の暑い日が続いていたので、一日働いた後は「冷奴、それに、旬の鰹の刺身を」と所望したのである。

ところが、その翌日にも、次の日にも、豆腐は出るが、鰹が食卓にのぼらない。そこで聞いてみると、北国(北海道)育ちの妻は、鰹を見たことも食べたこともないと言う。

今から20数年も前のことである。今のように、流通も整っていない時代のことである。傷みやすい鰹は、産地やその周辺の都市でないと、食べる機会がないのも当然のことである。

新婚時代はよく喧嘩をした。食事や掃除・日常の過ごし方など、どうしても違いが気になり、ささいなことで衝突した。

「女房を質に入れても初鰹」なんて川柳もあるが、私は江戸っ子でも何でもないのだが(関西の浜育ち)、田舎から出てきた八つぁんや熊さんのように、熱く自分の感性や文化を守ろうとしていたのかも知れない‥。

朝仕事に出かけたら帰ってこない日もある、夜遅く帰って来たと思ったら、テレビのスポーッニュースを見ながら、ビール&夕食!? 夕食後に話をしようと、連れ合いが片付けをしていると、後ろから夫の気持ちよさそうな寝息が聞こえてくる。

「これって、何? これが結婚生活?」 連れ合いも、否、向こうの方が信じられない異文化体験に、来る日も来る日も向き合っていたのだった‥。

5月になると、「目に青葉‥」という句と、若く苦い体験を思い出す。句は、視覚・聴覚・味覚、5感を用いて「初夏」を受け止め表現している。

ぺンテコステ(聖霊降臨)の出来事も、5感をもって受け止め表現されている向きがある。隣人の感性・文化・信仰の違いに気づいた、その現実の最中に、新たな出会いと展開が待ち受けているのだろう。

「あめんどう」の花が咲く頃           加藤久幸

ファイル 74-1.jpg
蝋燭(ろうそく)の灯(ともしび)を見つめる、私たちのまなざしや生き方を想起します。アドベント(待降節)の4週間は、闇が広がり深まる中で、蝋燭の灯(希望の光)が増し加えられることを見つめます。

レント(受難節)の40日間には、自然や世界の輝きが増す中で、消え入りそうな、消えていく‥蝋燭の灯(真実の光)を見つめます。

そして、ある人々は、イエスの復活の出来事をこう証言しました。「初めに言があった。‥言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は闇の中に輝いている。」(ヨハネによる福音書1章1~4節)。

イースター(復活日)から始まるペンテコステ(聖霊降臨日・教会の誕生日)にいたる50日間、私たちは、何に心注ぎ目を留めるのでしょうか。

復活の出来事の知らせに触れながら、イエスを大事に思う人々の歩みは、容易には形にはならなかった‥。世間では、イエスを中心とした集まりは消えて亡くなったと、気にも留めなかったでしょう。

しかし、ペトロが、そして他の人々が、自分の信ずることを語り始めるその日(ペンテコステ・教会の誕生)まで、「命の胎動」は確実に始まっていたのです。その様子は、ルカによる福音書の最後の方や使徒言行録の最初の方に報告されています。

水海道教会の2009年度の歩みが始まりました。今年は、教会創立110周年の記念の年であります。新しい年度や周年行事もまだ形にはなっていませんが、教会の「命の胎動」を感じつつ、この時を過ごしておられる各々の歩みに、心留めるものでありたいと思います。

「あめんどう」(エレミヤ1・16)-「早春突如として『奇跡』が起こる-枯れたかに見える裸樹にある日にわかに花が一斉に開き、さして高くない樹はあたかも白味をもったピンク色の花のかたまりとなり、周囲は花の香に包まれる。」(『聖書植物図鑑』)。

梅・桜・バラの時期を過ごし、新緑を経て、初夏を迎える頃、私たちは、どんな活動や姿を与えられ、ペンテコステ(今年は5月31日)をお祝いしているでしょうか。楽しみにして待ち望みましょう。

牧師の部屋                   加藤久幸

ファイル 66-1.jpg

21世紀が始まる、ミレニアム(千年紀)を迎えると大騒ぎをしていたのが、つい昨日のように思われる。新しい年度の予定を立てていたら、今度の1月はもう2010年になる。10年、100年というのは、過ぎてしまうと一日のようであるのかも知れない。今回は思いつくままに書くとしましょう。

2009年度の教会聖句は、「神は言われる。…あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。」(使徒言行録2・17)はいかがだろうか。

ここ数年使っている二葉幼稚園のパンフレットには「ふたばの夢」という文章が載っている。私が二葉幼稚園と出会った時の印象や願いを表したものである。最初から「夢」繋がりにしようと意図したわけではないが、水海道教会のことを考えた時、この聖書の箇所が思い浮かんだ。

水海道教会110年の歩みに関わってきた方々は、どんな夢や幻を抱いて歩んでこられたのだろうか。現在教会に関わっている私たちは、どんな夢や幻をもっているのだろうか。

拙い思いでもよい、普段の言葉でもよいから、各々の思いを共有できればいいなと、願っている。幸いにして、「110周年記念文集を作ろう」という企画が動きだそうとしている。

「わたしの声、あなたの声」が響き合う。そして、一人ひとりの「わたし」の声に、「あなた」(神さま)の声が秘められているならば、何と幸いなことであろうか。そういうことが起こる、起こっているとことに気づくことが、預言=「神さまの言(ことば)を預(あず)かっている」ということなのだろうと想う。

さらに、その輪が広がって、水海道がどんな地域になってほしいか、どのような次の世代を育てていくのか、一緒に夢を語り幻を見て、共に取り組んでいく機会が与えられるならば、とても素的だなと思います。

教会創立110周年の2009年度に際して、ご希望や提案があれば牧師までお寄せください。

神の畑、建物              牧師 加藤久幸

ファイル 59-1.jpg自分の慣れ親しんだ住まいや建物が壊れていく、その様子を見る経験を、皆さまはしたことがあるだろうか?

今回、私は初めてその経験をした。今まで話には聞いたことはある。新築のために古い家屋を取り壊す、その一部始終を見ていて涙が止まらなかった老夫婦。新校舎建築のために旧校舎を除却する、巣立った者や学び舎での体験を思うと、その場にいることはできなかったという校長。これらと違い、自らの計画ではなく、被災などにより、愛着のある建物を失う経験をした方もいるだろう。

2月12日(木)解体工事が始まり、13日(金)教会教育館は屋根・壁が壊され、14日(土)その姿は消失した・・。幼稚園園児が生活した保育室、中高生が分級をした部屋、青年が集いギターの練習をした部屋、教育館は様々な「顔」があった。そして、何より、教会堂と幼稚園を行き来するため、私たちは何度この教育館を通ったことであろう。

この教会3年目の若輩の私などと違い、教育館建築の頃から知っている皆さまにとっては、もっといろんな思い出と経験がおありであろう。

1月末の臨時教会総会、学園理事評議員会で、教会教育館除却と保育施設新設工事を決議し、迎えた2月1日礼拝で讃美歌400番を歌った。
   
   2 人の手が造る   建物に住まず、
     全能の神は    天におられても
     われらを愛して  聖霊をおくり、
     共に住まわれる
   
   3 神の家のため   われらを選ばれ
     生きた石として   主に用いられる。
     二人、三人が   共に集うとき、
     イエスもおられる。
            (「たとえ塔はくずれ」2、3節)

教会教育館を生み出した先達たちの歩みを想い、感謝します。そして、「あなたがたは、神の畑、建物である」(Ⅰコリント3・15)との言葉に促され、私たちも、活動や施設を生み出すような歩みを、継承し展開したいと願うものであります。

2009年の始めに           牧師 加藤久幸

2009年の歩みが始まりました。今年は、ワクワク、ドキドファイル 52-1.jpgキすることがあるといいなぁと、考えています。無理に探したり、沢山のことをしようとも思わない。前からやりたいと思っていたこと、できればいいなぁと願っていたことを、先ず一つ揺り動かしてみたい。

まどろみから目覚めていくように、何をやろうか時間をかけてゆっくり考え、ゆったり歩みたい。そして、年の暮れに、今年はこのことが始まった、この一つのことをすることができたと、しみじみと振り返ることができるならば、何と幸いな歩みでありましょう。

みなさんは、どんな一年の抱負、どんな念頭の所感をいだかれたでしょうか?

教会や学園においては、2009年度は、教会創立110周年記念、学園新規事業着手(育ちサポートセンター設立)、教会と学園の施設整備事業など、多くのことが予定されています。これらのことは、もちろん、きちんとしていく所存です。

でも2009年の暮れには(もしかしたら他の機会になるかもしれませんが)、教会や学園に関わる一人ひとりの思いや歩みを、互いに受けとめ合うことができるような、そのような交わりと歩みを心がけたいと願っています。

一人ひとりのワクワク、ドキドキ、ゆっくり、ゆったり、しみじみを受けとめるところこそ、教会や教会幼稚園の「味」であると思います。

従って、今年の私の願いは仕事絡みのことではありません。全くの仕事人間なので、仕事ではない、何かが目覚めればいいなあと、期待しています。こんなことを書くと後で困るのではないかと、心配してくださるかも知れません。でも、私自身は、新鮮なことは、落ち着いたハラハラドキドキから生れるのだと信じ、今は楽しみにしています。

今回の私の原稿は、他の方々の原稿を見た上で書かせてもらっています。今回の原稿や写真をみながら、昨年歩みを共にさせていただいた皆さまの顔や歩みも思い浮かべました。こんなにも個性豊かな方々とご一緒させていただいているのだという、感動を覚えます。

そんな交わりに背中を押されて、私も今年の歩みを始めます。加藤久幸さんの2009年、何が目覚めるのかは、今年のお楽しみ?です。


△ページトップへ

スーパーコピー時計 ロレックススーパーコピーN級品偽物
ウブロ時計コピー オメガコピー
シャネル偽物 パテックフィリップスーパーコピー
ヴェトモン コピー ハリーウィンストンスーパーコピー