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今週のお花

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長寿祝福を受けて

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若いつもりでいたのに何時の間にか八十歳になってしまった。教会の門をくぐったのは小学校一年生の時。思い出せば七十有余年、この教会で育てていただいた。牧師の祝福を受けている間、ずっと来し方(過去)を思い出していた。・・・・・・

夏休みの林間学校。麦茶ととうもろこし、美味しいおやつの味は今も忘れられない。吹上山にはところどころにピンクの川原撫子が優しく咲いていた。想い出もあり今でも一番好きな花である。

小学校三年の時日支事変が始まり、女学校一年生の時大東亜戦争が始まった。「非国民」等と言われ、クリスチャンであることがとても肩身の狭いこととなってしまった。
そうするうちに教会も軍需工場となり、私たちの礼拝は、今の江戸屋薬局の裏の六畳くらいの狭い部屋でひっそりと行われることとなった。

大通りから細い露地を入って行くのだが、周りをキョロキョロしながら人目をはばかって駆け足でその部屋に入った。讃美歌も小さな声で歌った。でも、若かったのでスリルもあって楽しいひと時だった。終って露地を出る時も、一人ずつそっと出て帰った。その間、男は軍需工場へ、女は挺身隊に働きに動員され礼拝に集う人もどんどん少なくなってしまった。

昭和二十年、やっと戦争が終った。その時のクリスマスが一番思い出のクリスマスとなった。やっと平和になった。教会へも堂々と来られる。「きよしこの夜」も大声で歌えた。歌っている間中涙が止まらなかった。

とてもうれしいはずのクリスマスだった。しかし、肋膜炎を患っていた姉がその晩危篤となってしまった。私は急いで帰り、プレゼントのソックスを姉の手に握らせた。姉はうわ言に「ああ、雪が降ってきた。サンタさんのそりが走って来る。・・・よかったね。」と微笑んで召されていった。いい最後だった。

私を教会へ連れて行ってくれた兄も戦死。そんなことで私はせっかく合格していた大学もあきらめざるを得なかった。とても悲しいことだった。

でも、教会青年会は楽しかった。軍需工場から大学へ行った優秀な男の人達が数人、幼稚園の先生方も熱心で聖書のほかに難しい本も回し読みして盛んに議論もした。アガペー・・・最高の愛は報いを求めない、与える愛である。そんな話し合いに心をときめかした。

元山大師を借りてキャンプもした。青年会のクリスマスはIさんの家の広い二階を貸していただいた。終戦後も食べる物は少なく、手作りの粗末なケーキだけとささやかで貧しかったが豊かな、豊かなクリスマスを祝うことが出来た。

戦後、共に学んだ青年会の同志が三人も次々に自ら死を選び、私たちは精神的に大きな打撃を受けた。救いとは何?信仰とは何?教会とは何?皆で悩み苦しんだ。
悲しみに打ちひしがれていた時、主の強い導きがあったのだろう。私達の心は教会に戻された。

幼い頃、日曜学校(今の教会学校)で意味も分からず口ずさんでいた讃美歌。
   宴の座に集うとき 貧しき友忘るなよ
   飢うるみなし児 やもめにまで
   栄えあれと 祈れかし
この歌は一生私の心をとらえてきた。どんな幸せなときにも決して自分の幸せにだけ酔ってはいけないと・・・そんなメッセージを聞いている。

これから、何回長寿祝福の日を迎えられるだろう。召される日まで教会の皆さんに支えていただきたい・・・と願っている。(A.T)

珈琲屋30年

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“深煎り自家焙煎・ネルドリップ一杯だて”
このやり方を続けて、「かうひいや珈和」は、先日7月25日で、開店30周年を迎えました。良く30年も続けられたなと、感心しているのは、私だけではないかも知れません。

何しろ、子供の頃から、(手先も性格も)不器用だったこの私が、珈琲屋さんなどという、人様にサービスをする仕事をずっと続けてきたのですから。

元々、特に珈琲が好きだったわけではありません。学生時代は、どちらかというと、その店のモーニングサービスに惹かれて行ったり、友人と議論をする為に利用していました。

それが、高校時代のKKSキャンプのOB達が集まっている下宿で、メンバーのひとりのF氏が淹れてくれた一杯の珈琲に衝撃を受けたのです。

それは、布フィルターでの一杯採りの珈琲でした。珈琲といえば、大量採りかサイフォンくらいしか知らなかった私は、フィルターに、細くお湯を注ぎ続けるF氏の真剣な眼差しにびっくりしたことを、昨日のことのように思い出します。

そんなやり方の珈琲で、人の集まる場所を作りたいと始めたのが、30年前のかうひいや珈和だったわけです。

人の集まる場所を作りたくて始めた店ですから、珈琲屋といっても、珈琲はあくまで脇役、by-playerで、集まったみんなと、店が終わってからもワイワイガヤガヤやっていました。

誰かが碁将棋盤を持ってきて、閉店後の掃除もそこそこに熱戦を展開したり、店の大家さんの若き日の武勇伝に聞き入ったり、その合間に誰かがカウンターの中に入って、勝手に珈琲を淹れてみんなに振舞ったりと、雑然とした中にも、結構活気に満ちたひとときだったと思います。

教会の皆さんにも沢山のご支援を戴きました。あの頃は、娘が満一歳、教会の友人も20代の若手でした。Oさんが牧師になられ、大阪梅田教会へ赴任されるときの送別会を、珈和でさせていただいたのも懐かしい思い出です。

それから30年、店の場所は、市役所のそばから今の森下の地に移り、営業時間も店主の年齢に合わせて短縮されて、閉店後の時間にみんながワイワイ集まることはなくなりましたが、“人の集まる場”というお店のコンセプトは、今でも皆さんのおかげで続いているようです。

珈和のデザイン関係を一手に引き受けてくださっている方は、30周年記念のオリジナルトートバッグを、店のメニュー立てを珈和らしいデザインで創ってくれた方もいました。それに何より、沢山の皆さんに素敵なお花で店を飾っていただきました。

30年も続けられたのは、そんな人との出会い、交わりがあったからできたことなのでしょう。

続けられたのではなく、続けさせていただいたのだ。集まらせて貰ったのは、私たち自身なのだと言うことをしみじみと語り合っている珈和の夫婦です。
 こんな私たちを、後?十年、宜しくお願いいたします。
(K.F)
kazu-furui@cam.hi-ho.ne.jp

望みは叶えられた

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野尻キャンプに参加したいという20年来の望みが叶えられ感謝に耐えません。

バスを降りて野尻湖の前に立ったときどんな感慨が湧き出るだろうとバスの中で想いめぐらしていた。やがて「キャンプ場はどの辺りにある?」と若いメンバーに聞く心はやる私が船上にあった。

重い手荷物をぶら下げてキャンプ場のメインホールの前に立った時は気持ちが以外に落ち着いていた。今思うと不思議である。

水海道教会20周年記念野尻キャンプ開始。キャンプのプログラムはCSキャンプのそれと全く同じ。各プログラムの開始時刻は正確であった。

幾つかの昔のキャンプを経験した曾ての青年会の人たちが、機敏な動作を苦手とする自身を顧みた早め早めの動きが全体の動きのペースメーカーになったようである。若いメンバー達には多大の迷惑をかけたかも知れないが・・・

CSプログラムと違ったものが2つある。キャンプファイヤーの時の花火と妙高高原ロッジの温泉の入湯である。花火の時のメンバーのはしゃぎ様は教会の日曜礼拝を守って下さった皆さんの想像にお任せする。

キャンプファイヤーの火が消え、各キャビンに戻ろうとした時無数の火の光が暗闇に点在しているではないか。眼前に幻想の世界が展開していた。キャンプ場のスタッフが、それぞれのキャビンへの道の両側にトーチを用意してくれたのである。

所長さん初めスタッフの皆さんには大変お世話になった。所長さんの話の中にN牧師先生のお名前が出て、20年前「水海道教会野尻キャンプ」を備え始められたN牧師先生の苦労に思いを馳せることができた。

3日間のキャンプはあっという間に過ぎた。私はチャイムを聞きながら3日間を静かに思い返したくなり、スタッフにこの企画を厚かましくお願いした。快諾をいただき、船着場に向うとき“今日の業をなし終えて”のチャイムがキャンプ場に響き渡った。

船が次第に岸を離れ、桟橋で見送ってくれているスタッフと手を振り別れの挨拶をしていた時、スタッフが突然、次々と湖に飛び込むのには驚かされた。この様な見送りの光景を目にして何時の間にか私は目頭が熱くなった。

この涙は別れの悲しみ等という感傷によるものではなかったことは確かだ。一体何の涙だったのだろうかとこの拙文を書き終えて考えている。短い日程の野尻キャンプだったが祝福された3日間であった。(K.S)

月下美人が咲きました

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ある夏の夕方、花好きな友人から、月下美人が咲きそうだから見に来ないかという誘いがあった。夜8時頃から咲き始めるということであった。

月下美人の傍でお茶を飲みながら開花を見守った。じっと見つめているとあまり変化は感じられないが、話に身が入ってしばらく目を離しているとずいぶんと花が開いていることに気づく。10時ごろに開ききって、良い香りが漂った。見事なものだった。

翌年、その友人が刺し芽をして増やしたという一鉢をプレゼントしてくれた。おととい、70cmほどに育ったその鉢にかなり膨らんだ蕾が付いているのに気づいた。玄関先に置いて、毎日見ていたはずなのに、こんなに大きくなるまでどうして気が付かなかったのだろうと思った。

件の友人に電話をすると、2,3日の内に咲くのではないかという話だった。自分が気づかなかったことを言って、いきなり大きな蕾が付くのかと尋ねると「そんなはず、有る訳ないでしょう。」と大笑いされた。

それまでは蕾が付いているのも知らないで過しているような世話しかしていなかったのに、鉢を洗って室内に取り込みにわかに大事にし始めた。

そうしてから三日目の今夜、花が開き始めた。9時近くなると半分くらい開いてきた。一人で眺めているのがもったいなくなり、お隣さんに「一緒に見ていただけませんか?」と電話をした。

ご夫婦でパジャマ姿のまま着てくださって、しばらく一緒に眺めてくださった。あの花、この花の話と花談義に花が咲いたが、満開を待たずに「良いものをありがとう」といってご夫婦は帰って行った。

程なく月下「美人」は満開を迎え、「美人ではない人」との二人の部屋に少しきついくらいの芳香が満ちている。(H.M)

自給自足から“野菜売り”に       

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きゅうり4袋・小松菜7袋・赤カブ2袋。それに黄色い花の付いたズッキーニ。これが私の今日の出荷品です。ままごと遊びのような“野菜売り”を始めて1ヶ月になりました。

事の発端は、野菜の豊作でした。連れ合いが昨年から作り始め、畑の広さにつられてタネを蒔いているうちに、大変よく出来て「市場に出そう」と言う程になりました。

白菜とキャベツ・カリフラワー・レタスが100株位ずつ見事に育って喜んでいた処、市場で言うには、「段ボール1箱に白菜4個で200円。箱代は170円。」差し引き30円です。

もうーびっくり仰天。「市場出しは駄目だ!誰かに呉れてこい。」と言うのです。「えつー!そんなー」、思いつくのは幼稚園位で、少しは持って行きましたが、畑から運び出すのさえすぐにくたびれて、「何でこんなに作ったのー」と険悪ムード。

すると「トラクターでつぶす」と言うのです。何とももったいなくて、言い争いの末、近所の野菜直売所に持っていこうと言う事になり、言いだしっぺの私が電話する羽目になりました。

意を決してかけると、以外にも「すぐに持ってきて下さい。」との事。細かい注意と、「5個売りたかったら10個並べる。」と教わって、つまり全部売れるわけではなく、残ったら持ち帰りです。それでも少しでも誰かに食べてほしいと、丁寧にこしらえてお店に並べました。

初日は2個、2日目に4個、しかしその後は順調に売れ、補充して下さいとの連絡が相次いで嬉しい悲鳴。ですが、直前に虫の被害が出て、出荷出来たのは育った物の半分位でしょうか。『無農薬』が良いのは当然ですが、出荷する身になると大変な事がよく分りました。

会話のなかった夫婦が毎日野菜談義。『日本の食糧自給率アップに貢献』と意気を挙げていましたが、過剰な設備投資(トラクター購入や作業場の改造)と、間近に迫った畑の宅地税化など問題は大きくて、良い事ばかりではありませんが、日々「売れた!残った!」と一喜一憂の、ちょっと平和な面白い生活をしています。(Y.N)

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