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「信仰は、心を、人を動かします」 加藤久幸

ヘブライ人への手紙は、大変興味深い書物です。手紙のようで、一つの「説教」のようであります。この「説教」は、こう始まります。「多くのかたちで、また、多くのしかたで、神は、かつて 預言者たちによって先祖たちに語られたが、この終りの時代には、御子によって わたしたちに語られました。」(1・1~2)
 
ある牧師は、ヘブライ書の御言葉の全体を聞き、聖書の言葉を引きつつ、このように語っています。

「問題は驚くほど今日的であるように思われる。彼の会衆は倦み疲れている。彼らは、この世に仕えることに疲れ、礼拝に疲れ、キリスト教の教育に疲れ、社会の中で特別な目で見られ、世の人々のひそひそ話の種にされることに疲れている。霊的葛藤に疲れ、祈りの生活をどうにか続けようとする努力に疲れ、イエスその人にすら疲れている。

‥。彼らは自信を失いつつある。この集会を脅かしているのは、彼らが誤った方向に去っていくということではない。彼らがどこかに去っていくだけのエネルギーを持ちあわせてはいない。ここでの脅威とは、憔悴し、やがて摺りきれてしまって、掴んでいるロープの端を手から放り出し、漂流しようとしていることである。歩くべき道を歩くことに疲れ、彼らの多くはあちこち歩きまわるようになり、教会を去り、信仰から離れようとしている。

‥当然ながら、私たちにも問題の所在はよくわかる。だが、この説教者の応答は私たちをびっくり仰天させると言ってよい。

‥もっとも注意を引くのは、霊的疲弊という牧会的難題に直面して、この説教者が、果敢にも、いや無謀とも言えようが、キリスト論と説教こそがその答えだと考えていることである。

説教者は、進歩的なグループダイナミックス、葛藤処理技術、宣教態勢の再編成、あるいはてきぱき歯切れのよい礼拝の持ち方などに助けを求めてはいない。‥この説教者の宣教への接近法は、ごく普通の直感からするとあまりにも信じがたい‥だがこの接近法は、清心で革命的とさえ見なされる‥」。(参考:現代聖書注解)。
 
福音は、喜ばしく、生気を与える信仰の出来事となります。信じなければならないことは、信仰そのものです。今も、ヘブライ書に聞く意義は、ここにあります。信仰は、心を、人を動かします。

命の畏敬や感謝       加藤 久幸

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8月26日、政府は、東京電力福島第1原発事故で飛散した放射性物質を除去するための基本方針を決定しました。その内容は自治体に委ねるというものでありますが、常総市では、8月下旬から「放射能除染(低減化)対策」を始めました。計測値の高い小中学校・保育所等の校庭(園庭)の土砂除去、側溝の土砂除去などが行われています。水海道教会学園も、園庭内側溝の土砂を9月10日に除去し、現在は袋詰めした状態で、教会敷地内に「一時」保管しています。
 
前回「交わり」に農作物の放射線被害について書きましたが、今回は土の被害について書きます。
秋から冬にかけて、日本の山林の樹木は、葉や枝を落とします。トビムシやミミズなどの小動物とバクテリアやカビなどの微生物が、それらを分解して、100年から200年かけて1㎝の腐葉土をつくるといわれています。そして、1haあたり土の上では約4トンの落葉や枯枝、土の中では約800㎏の枯れた根を供給しているとのことです。こうした有機物の働きにより、山林の樹木は化学肥料や農薬なしに成長してきています。農業の土づくりは、山林の自然が100年から200年かけてつくっているのを、人間の手を加え数年間に早めているようなものと言えるでしょう。

今回、茨城県内の除去土砂の目安は約1㎝と言われています。教育施設の園庭とは同列にはならないでしょうが、農地における「放射能低減化対策」について、想わずにはおれません。どのように取り組むのでしょうか。

前回農作物は生きていると述べましたが、土も「生きている世界」そのものです。私たちは、生きている世界の無数の命のおすそわけによって生かされています。
何の責任もない樹木や草花、そして土が、汚染されていると報じられ、疎まれています。

旧約聖書などに見られるように、「もっていきようのない」ものを持ちこんだ、災いを招いた人間が、猛省・悔い改めることから始めることが肝要かと考えます。もしそうでないなら、私たち自身が、「もっていきようのない」ものを抱え込み、そのような状態・世界に留まり続けることになるでしょう。命の畏敬の感覚や感謝から始めて、新たな人災を招くことのない道を確かにし歩みたいものです。

息あるもの復興の道        加藤久幸

ファイル 266-1.jpg今回の「交わり」には、教会&学園の敷地内の放射線量の現状と対応を、本稿とは別に書く予定であった。その記事にちなんだ写真が今回間に合わなくなったため、その記事は次号にまわすことにした。

そんなことを考えていたら、昨日、鉾田市内で栽培されたコメから、1キロ当たり52ベクレルという微量の放射性セシウムが検出されたことが明らかになった。国の暫定規制値(1キロ当たり500ベクレル)の1割程度であることから、県は「安全性は確保されている」と強調するが、農家では風評被害が起こらないか不安を募らせているという。今回の調査は、収穫前のコメを対象とした予備検査であり、県の担当者は「(収穫後の)本検査で、改めて安全を確認したい」と語っている。

私の家庭のコメは、福島の友人が育てたものを送ってもらっている。もう長い付き合いになるが、その友人を始めるとするキリスト者農(林漁)民との付き合いから、食べものは生きていることを、教えられ学んできた。稲であっても、種自身がもつ生きる力、そして、他の微生物との関わりの中で、成長し、穂をつけ、実を結ぶ。そして、この実を播けば、次の世代の多くの命を紡ぐのである。私たちは、これらの無数の命のおすそわけによって、生かされている。食べ物は単なる物ではなく、私たちを活かす生けるものとしてあるのである。私は、友人たちから、その命の糧(かて)と共に、育み見守る労苦と喜び、そして、感謝をも送り届けられてきた。

今年は、新米とともに、どんなメッセージが届くのであろうか? 「売れるかどうか」「物になるかどうか」ではない。いつもは、稲の生長の物語が短く添えられていた。福島の地で、不安を感じながら歩んでいる多くの方々の歩みに想いを馳せる。それと重なるように、傷んでいるのは人間だけではないと、想わずにおれない。感傷的に過ぎると感ずる人もおられるかもしれないが、私は息あるもの復興の道を、今秋思い巡らしたい。

二葉幼稚園の“ほっとクラブ”

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二葉幼稚園の“ほっとクラブ”が、始まりました。この会は、保護者の方のおしゃべり会です。園長が、最初に話題提供をして、その後に自由なおしゃべりをします。案内には、「“ほっと”一息つけるような、ゆったりとした時を過ごすことができれば」と、お誘いしました。

第1回目は、7月11日(月)に行われました。7名出席予定でしたが、5名の参加となりました。お二人はお子さんの事情で、急に参加できなくなりました。子育て世代の日常には、予定どおりいかないことがいつも起こります。そんなお母さんだからこそ、“ほっと”一息、“ぼー”とする時間をと、願うのです。とりわけ、働いていて、このような会に参加することすらできないお母さんにこそ、そのような時が与えられることを願いつつ、再び始めました。〔昨年度はお休みでした。〕

今年の話題提供は、“絵本の旅”という主題を考えました。園長が、なるだけお母さん方に絵本の読み聞かせをします。そして、子どものこと、自分のことを思いめぐらす時間を、ご一緒したいと願っています。

第1回目は、自らの子育て体験から生まれた手作り絵本、ひぐちみちこ「かみさまからのおくりもの」(こぐま社)をとりあげました。生まれた子どもは一人ひとり個性をもっています。子どもを親や社会の気にいるように変えようとするのは大人の横暴で、子どもの本来持っている個性を壊してはならないと、作者は自ら言い聞かせます。

今回は、もう一つおまけの絵本をとりあげました。松田素子「おばあちゃんがいるといいのにな」(ポプラ社)です。子どもにとって、大事な、そして一番の隣り人は、親・保護者です。大人が子どもを見るように、子どもは大人をどんなふうに見ているのだろう?

この絵本に登場するおばあちゃんは、どこにでもいるようなおばあちゃんです。「かおを みるだけで ほっとするひと ‥そんなひとが みんなのちかくには いませんか?」(絵本の帯より) 私は、こんな“おじいちゃん”になりたい、このおばあちゃんのような生涯を過ごしたいと、私の願いをお話しました。

“ほっとクラブ”、“絵本の旅”は、どんな展開を辿るでしょうか?機会を得て、また紹介します。

放射線の数値       加藤 久幸

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本日、市内の各家庭に、常総市「市民の皆さまへのお知らせ」(第4報)が、新聞の折込として入ったと思います。

その中に、教育施設及び児童公園等における放射線量・放射線物質測定結果一覧が掲載されています。常総市では、6月8日(水)から、市内の教育機関等を網羅する形で、計測を始めました。

それによると、水海道教会学園の園庭の空間放射線量は0.176マイクロシーベルト(μSv/h)です。これは1時間当たりの線量です。この値をもとにした年間予定放射線量は、0.176×24時間×365日=1541.76となります。1000マイクロシーベルトは1ミリシーベルトなので、私たちの園庭の年間放射線量は1.54ミリシーベルトになり、文部科学省の示す学校における目標数値の年間1ミリシーベルトを超えているではないか、ということになります。

しかし、ここから先があります。365日園庭にいるわけではありませんので、現実は、外での活動時間を算定したり、園舎内にいる時は戸外の場合の何十%掛けという計算方法を加味し、計算が成されます。こういう算定により、私たちの園を始め、常総市内の施設は「基準」以下と見なされるとの説明を受けました。
その他、少し気になるの、園庭(土)は、放射性セシウムCs134が510ベクレル、Cs137が580ベクレルと、市内の施設の中では高めに出ていることです。

さて、私は、6月11日(土)学園の保護者向けの講演で「二つの学力」というお話をしました。身につけた知識や技能という学んだ力、そして、現在の課題を解決したり実行できる学ぶ力です。しばしば用いられる例で、私たちは英語を学んだが、聞けない話せない‥。数値で測れるものと、そうでないものがあります。さて、私たちは放射線の数値をどのように受けとめ行動するか?保護者の皆さんにも問いかけましたが、皆さんは?

私は、数値というものは一つの基準で現実を受けとめたり相対化できる大事な値だと考えます。しかし、数値は「微妙」、政府が言う「直ちに」健康に影響がないのか知れません。誰も「確実」「安全」とは言えない―これが私たちの「現実」です。
「安全」ではなく、安心・平和は、私たちの決断・歩みの中にこそ、先ず見いだすべきものです。

風薫る                加藤久幸

ファイル 239-1.jpg “風薫る”という言葉が、体の中に浮かぶことが何度かあった。はて、どこで?と、思い起こした。
    *
今年は、いくつかの遠足・ピクニックがあった。5月7日(土)教会学校[福岡堰さくら公園]、5月8日(日)青年会有志〔清水公園〕、5月18日(水)婦人会〔あしかがフラワーパーク〕、5月20日(金)水海道教会学園〔ポティロンの森〕。この他にも、5月15日(日)教会学校の田植えなど、小さな自然に触れる機会もあった。

「“風薫る五月”というように、今日では決まり文句化したものであるが、この「風薫る」は、もともと漢語の「薫風」で、訓読みして和語化したものである。‥和歌にも詠われたが、花の香りを運んでくる春の風を指すことが多かったようだ。それが俳諧になると、青葉若葉を吹きわたる爽やかな初夏の風の意味の季感をもって用いられるようになる。」(引用は「日本国語大辞典ネットフォーラム」による。」)。

「風薫る」を、今年一番最初に感じたのは、4月29日(金)、東日本大震災後、初めて仙台・東北に向かった時であろう。道中の北関東・東北の森の青葉若葉が本当に鮮やかだった。この旅は、被災地の様子、人々の生活を案じての、道行きであった。そして、かの地にも、風は吹いていた。

 今年3月14日にKさん、5月21日にIさんの納骨式があった。私は、納骨式の讃美歌に、57番を選んだ。この讃美歌は、「ガリラヤの風かおる丘で」「あらしの日波たける湖で」「ゴルゴダの十字架の上で」「夕ぐれのエマオへの道で」「恵みの、ちからの、すくいの、いのちのみことばを、わたしにも聞かせてください」と歌っている。

 風は吹いている。ガリラヤに、生活の場に、各々の人生の道に、風は吹いている。草花の香りもあるが、キリストの香りも運ばれてくる。今年の春はいろいろあり、私もようやく動き出す5月になったのか、「風薫る」という生活感情が体によみがえってきた。そして、ペンテコステの風が吹く。

二人の方が洗礼を受けられます    加藤 久幸

本日、二人の方ファイル 232-1.jpgが洗礼を受けられます。私たちは、いつも、幸いな時と災いの時、豊かな時と貧しい時、健やかな時と病む時、生と死、その狭間(はざま)、ただ中を生きています。私たちは、欠けた器であり、常に命の危機(≒罪)を身にまとっています。イエス・キリストは、言と行い、十字架と復活によって、新しい世界を指示し、人間としての新しい在り様を示されました。 

洗礼は、このイエス・キリストを信じ、イエス・キリストに起こった出来事を信じ、その信仰を公に表明して授けられる、新しい歩みの旅立ち(≒救い)の出来事です。

「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるからです。」(ローマ書10・9~10)と言われていることが、洗礼式の中で具体的に出来事となるのです。

「誰もが心の中で信じていればよいのではないか」と思われる方がいるかもしれません。信じることは、心の中だけに留まるものではありません。言葉が出来事になり、信仰が行いとして現れるのです。「信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成(全う)される」(ヤコブ書2・22)のです。

「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(ローマ書6・4)。

洗礼から、イエス・キリストにおいて示された「神はわれわれと共におられる」(マタイ1・23)という、私たちの新しい歩みが具体的に始まります。

洗礼はまさに「見えざる恩恵の見えるしるし」アウグスティヌス)です。見えない神さまの心は、イエス・キリストという「しるし」として示されました。イエス・キリストを信じ、イエス・キリストに倣って(従って)生きる、新しい出立(しゅったつ)式が洗礼式という出来事です。

「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。」(Ⅱコリント4・18)。お二人を包む神さまの見えない祝福を五感で受けとめながら生涯を歩まれますようお祈りします。アーメン。

「造られたもの」           加藤 久幸

18日(金)夕方、21日(日)奏楽者のIさんが、練習のできるのはこの時間しかないと、教会にやってきた。今週の週報の次週予告の讃美歌は空白‥?? 牧師への携帯が通じ、遇うことができた。この1週間の歩みを互いに確認し、その場で二人で讃美歌の選曲をした。先ず、思い浮かんだのが、425(こすずめも、くじらも)。

 1 こすずめも、くじらも、空の星も、
   造られた方を たたえて歌う
 2 大地震も、嵐も、稲光も、
   造られた方に 助け求める
 3 七色に輝く 虹と十字架
   空(から)の墓を見て、感謝捧げよう。
 4 飢え、渇き、病と、浪費の世に、
   造られたものは、いやし求める。
 5 隣人と敵との へだてはなく
  神は愛と平和 お与えになる。
  6 いつの世もおられる 神の愛は
    未来の世代の 生きる喜び 
 
この讃美歌について「讃美歌21略解」(日本基督教団讃美歌委員会編)は、こう解説している。「神によって造られた私たちが、どのようにして神に仕えるかを歌い、さらに造られたものどうしの和解や、神さまへの信頼をうたう賛美歌です。

作詞者ヤラスラヴ・ヴァイダ、作曲者カール・シャルク。‥英語原歌詞は、各節に“God of the …”(〇○の神)というフレーズが多用されています。単語を並べる、韻を踏まない、句読点なし…と、82番『今こそここに』同様、ヴァイダの実験的な手法が見られます。 

神によって造られたものから、この賛美歌は始まります。歌いだしの『こすずめ』は、詩篇84:4にある『あなたの祭壇に、鳥は住みかを作り』という聖句を思い起こさせます。すぐさま『くじら』という大きな被造物へ、さらに『空の星』へと広がります。

2節では、地震や嵐などの自然も神のもとにあることを歌い、3節では『虹』『十字架」『空の墓』などの象徴的な単語が用いられ、聖書の出来事に思いをはせます。4節からはこの社会に生きる私たちの世界を歌います。」
 
本日(3月20日)、私たちは、揺れ動いている造られたものとして、この讃美と信頼を歌います。

「未来に向かう」         加藤久幸

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今回の「交わり」の巻頭言に、編集者が私たちの心備えとなる文章を書いてくださっています。その言葉にも導かれて、私は年主題に関連して少し触れておくことにしましょう。

2010年度の教会の主題は、学園の年主題と同じものでした。この主題に基づき、大澤秀夫牧師(敬和学園大学)が毎月「キリスト教保育」の「聖書に聞く」というコラムを執筆してくださっていました。大澤さんは年度を締めくくる3月号で、次のように述べています。

「2010年の年主題は『希望-愛の中を生きる』とあるように、希望と愛とから成っています。とすると、もう一つ挙げたくなるのが信仰です。希望は将来へと向かう軸、愛が隣人へと向かう水平軸であるとすれば、信仰は神に向かう垂直軸です。どんな挫折をも乗り越えていく希望と、どんな亀裂をも乗り越えていく愛は、天からくる神の恵みを感謝して受け取る信仰によって支えられています。1年の結びにあたる3月、神さまからの語りかけに信仰をもって聴きいることといたしましょう。」

大澤さんは、その後、申命記6章も引きながら、3月の月聖句である「あなたたちはわたしの宝」(出エジプト19・5)について解説をしています。「まず第1に、私たちが覚えたいことは『どの一人も神さまの前では、かけがえのない宝物である』ということです。そして、第2は『神さま以外の誰も、私たちを自分の持ち物であると言ったり、支配することはできない』ということです。ここには神によって生きる人間の自由がはっきりと宣言されています。たとえ、どんなに小さな子どもであっても、その子なりの誇りを与えられて、そこにいます。私たちは子どもたちを尊重しなければなりません。その上で、もし子どもたちが私たちに心開いて、心の通い合いが生まれるとしたら、それは、一つの奇跡、思いがけない贈り物であるのです。この1年間、きっと皆さんはそのような子どもたちとの出会いの奇跡を重ねて来られたのだと思います。」

私たちも、思いがけない贈り物、天から来る神の恵みを、改めて受けとめ、数えてみましょう。過去を振り返る営みの感謝から、未来に向かう私たちの「今日」「新年度」の歩みが始まります。

「恩送り」            加藤 久幸 牧師

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最近、「恩送り」という言葉があることを知りました。何度か、その言葉に出会う機会がありました。その一つを、紹介します。

「井上ひさしさんは中学生時代、岩手県一関市の本屋で国語辞書を万引きしようとして店番のおばあさんに見つかった。『そういうことをすると、わたしたちは食べていけなくなるんですよ』。おばあさんは厳しくたしなめ、薪割りを命じた▲罰だと思って井上さんは薪割りをした。すると、おばあさんは、国語辞書を渡してくれた。『働けば、こうして買えるのよ』。『おばあさんは僕に、まっとうに生きることの意味を教えてくれたんです』。井上さんは『返しても、返しきれない恩義』と振り返っている▲40年以上の歳月の後、大作家となった井上さんは一関で何度もボランティアの文章講座を開く。それを井上さんは『御送り』と言い表している。誰から受けた恩を直接返すのではなく、別の人に送る。その人がまた別の人に渡す。恩がぐるぐると世の中をまわるのだ‥▲漫画タイガーマスクの主人公・伊達直人を名乗る児童養護施設への贈り物が相次いでいる。孤児だった覆面レスラーが同じ境遇の子どもたちにファイトマネーを投じる――40年前の『恩送り』の物語である。それがなぜか今、人々の心を奥深くから揺り動かすのだ▲『恩送り』は江戸時代によく使われた言葉という。人々の間で受け渡される思いやりが増幅して世界を変えている。初夢に終わらせたくない善意の連鎖反応だ。」(毎日新聞「余録」2011年1月12日)。
 
私も、40数年前からの10年間に、「返しても返しきれない愛」を、たくさん受けた体験があります。私は「恩を返す」という言い方・生き方に馴染めず、私を温かくしてくれたという意味で「温人」と名付け、私も同様の歩みを始めました。彼らは異口同音に「自分に返さなくともよい」と語りました。今にして思えば「恩送り」の連鎖へと招き入れてくれた方々であったのかと、振り返ります。

暗い世相になると、悪意の連鎖反応も起こりますが、現実の不安や恐れは誰もが感じるところです。人々の心を、生き様を奥深くから揺り動かす体験・物語があることに触れて始まる新年。善きことが伝わり広がる1年でありますように。


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