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復活の主に出会う            H.M

ファイル 307-1.png3.11の大地震からとうとう一年が過ぎてしまった。「やっと一年」ではなく「もう一年か」という思いが深い。それは私たちがこの一年間を「東日本大震災」のただなかで過ごしてきたからに違いない。一年前に起こった大きな出来事として記憶にとどまる過去の一点ではなく、あの瞬間からずっと続いているまさに「震災」の状況の中を、日々想い、日々考え、日々怯えて生き続けているからに違いない。

最近3月14日には東北と北海道に津波を伴う地震があった。繰り返し津波注意報を伝えるテレビの画面に見入っているときに、茨城県と千葉県で震度5強を記録する地震があった。当地方は震度3と伝えられたが、ずいぶん大きく揺れたように感じた。携帯の緊急地震速報も鳴り、一瞬恐怖を感じた。3.11以来徐々に収まって来たかに思えた余震が年が改まってから、茨城県北部を震源とする余震が多くなり怯えている。

穏やかで満ち足りた毎日を過ごしたいと念願している。しかし現実は、なかなかそうはいかない。新たに加わった地震や原発事故の恐怖、病気、経済的苦境…恐れる事がたくさんある。『なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。』とイエス様に叱られる、そういう状況で日々暮らしている。

こういう恐怖感を抱くのはなぜなのだろうか。
いろいろな事象の先に死を感じ取るからではないだろうか。加賀乙彦の小説「宣告」中に二人の死刑囚の会話がある。カトリックの信者である主人公が「正直言って死は怖い」と言う。すると別の死刑囚が「死は待っているから怖いのだ。俺は死を迎え撃つ。おまえは信者なのになんと軟弱なのか。」というようなことを言う。記憶に頼り原文に照らしていないので多少の相違があるかも知れないが、大体こんな風だった。それを借りれば軟弱な信仰者ということに違いない。

もし、「私たちには復活のイエス様がいる。天国がある。だから死は怖くない。」と言って死の恐怖を克服できるならばこの人物がいう「死を迎え撃つ」ということにでもなるのだろうか。しかし「復活のイエス様」を旗印にして高く掲げる事で死の恐怖を克服することが出来るのだろうか。勿論、深い信仰生活とイエス理解に立って静かに「私には復活のイエス様がいる。」と言える人もいるであろう。出来るならそういう者に私もなりたい。しかし、不可逆的変化である死に対しては何物も効果がないように思える。

聖書にはイエス様が病気を癒す奇跡物語が載っている。しかし、私の人生にはそんなことは一度もなかった。イエス様は長血の女や盲目の男を治した後で「あなたの信仰があなたを救った」と言われる。もし、結果が逆なら、もし病気が治らなかったなら、「あなたは信仰が薄いから救われない」ということなのだろうか。

これら奇跡物語というのは人をつまずかせる。
現代に生きる者の常識から判断して理解に苦しむからである。聖書は昔の人が当時の感覚と理解に基づいて書いているのだから、分からなくても仕方がないと思ったこともあった。しかしその齟齬が心の中にわだかまりとして私をいらいらさせた。どうも性分として辻褄の合わないことを「然り」といって納得できないらしい。まさに「信仰薄きもの」という表現が当を得ている。

3月4日の礼拝のテキストは「ヨハネによる福音書9章1~12節」、生まれつきの盲人を癒す物語だった。その日は司式の当番に当たっていたのだがすっかり忘れ、その上少々遅刻をして礼拝に出席した。「信仰薄き者」をこの身に体現していたと思う。しかし、遅刻をしてもその日の礼拝に加われたことは私にとって大きな恵みだった。

その日の説教で久幸牧師は「『あなたの信仰があなたを救った。』ということは『あなたの想いや考えがあなたの人生を左右しますよ。』ということです。」と仰った。病気が治ったという事実にばかりとらわれてつまずいていたが、そうではなかったのだと思った。病気などの負の事柄も含む人生のすべてをイエス様は語っておられたのだと思った。

祈ったところで事実は変わらない。病気は治らないし、地震は起こる。もっとひどい状況に陥るかも知れない。やがては己の死の時が確実に来る。

しかし心から祈りたいと思う。静かに手を合わせ、想いを言葉にする作業をしたいと思う。起ってしまった事実や陥っている状況は変わらないかも知れないが、少なくとも、祈りによって心の裡が整理されて対処の知恵が湧いてくるだろう。そして復活の主が「ね、分かったでしょう。」と傍らに立ちほほ笑んでくれそうな気がしてくる。

カナダ旅行           Y.M

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充電と非日常の中での新たなアイデア探しを目的に、7月初旬に機会を得て、カナダ西部の旅をしてきました。う

カルガリーではカナダの独立記念日にも重なって、折しもイギリスのウィリアムズ皇太子ご夫妻の訪問があり、賑やかな雰囲気でした。

バンフは小さな町ですが、自然に溢れ、人の心も穏やかな感じです。ゴンドラに乗るとカナディアン・ロッキーの峰々が360度見渡せます。ズボンを野リスが駆け上って来たり、クマも2回見ました。白い山々を映す、澄んだ水色の湖も、見たことのあるカレンダーの写真そのものでした。

「森にて鳥の音を聞き、聳ゆる山に登り、谷間の清き流れにまことの神を思う」の讃美歌を思い出しました。まさに、創造主の存在を実感させられる場所でした。

YMCAのキャンプのモットーは、人と出会い、自然と出会い、神に出会う、とされていますが、この感動を子どものうちに味あわせてあげられないか、といつの間にか、また仕事のことに考えが傾いていました。

洗礼を授けられて        S.Y          

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2011年4月24日、復活祭のよき日に洗礼を授けていただきました。神様のお導きと恵みに深く感謝します。また半年以上に亙った洗礼準備会において、加藤久幸牧師は私の愚問に対して忍耐強く、丁寧に答えてくださいました。有り難いことと存じます。そして、昨年7月の初訪問以来、新参者の私を暖かく迎え入れてくださった教会役員、教会会員の方々に対して重ねてお礼を申し上げます。
ところで、私がキリスト教に入信することになった背景には、幼いころに培われた宗教に対する親近感があります。というのも、私は神社や寺院が多数存在する京都を故郷とし、大学に入るまで彼の地で暮らしました。実家は新撰組の屯所で有名な壬生寺の近くにあり、郊外の禅宗寺院からは離れていたのですが、寒い冬でも裸足にわらじ履き姿の修行僧が托鉢のため巡ってきました(嵐山の天竜寺から来ていたようです)。町の人々も彼らの苦労に敬意を払い、お布施を捧げることを当然のこととしていました。
また、私の実家は浄土真宗東本願寺の系列寺院の檀家でしたが、熱心な門徒ではありませんでした。それでも東山の大谷祖廟(親鸞上人の廟)付近に墓地があったこともあり、祖母に連れられ墓参の帰りに祖廟へもしばしば参拝したことを記憶しています。こうした行事を通じて、目に見えないものへの畏敬の念が育まれたように思います。加えて高校では真言宗に属する東寺の付属校に通ったため、週に一度設けられた宗教の授業において、お釈迦様や弘法大師の故事、さらに般若心経に接しました。不十分な理解でしたが、それでも深い真理の断片に触れ得た喜びを感じることができました。
このように京都は仏教文化が空気のように人々を包み、生活に深く根を下ろしている土地柄です。これにもかかわらず、私にはキリスト教と交わりを結ぶ機会が与えられました。家の近くにカトリック教会があり、保育園が付設されていたからです。名称はカトリック聖母保育園でした。両親は共稼ぎであったため、私をそこに通わせたのでしょう。神父さまが園長先生であり、年配のシスターも園児に優しく接してくださいました。私たちは園で聖書についてのお話を聞くだけでなく、教会堂にも頻繁に出入りしていました。カトリックの教会ですので、十字架にかけられたイエス象、聖母マリア象、悪魔を踏みつける大天使像、宗教的ステンドグラス(確かビアドロローサの情景)などが会堂を飾り、これらの荘厳な象徴を通じてキリスト教文化に接することができました。さらにミサの儀礼において信徒の方に種無しパンが授けられる光景を羨望の気持ちを抱いて見つめたこともありました。
私たちの水海道教会はプロテスタントに属し、教会堂の装飾や礼拝の雰囲気もカトリックとは大きく異なります。現在私自身としては聖書講読や説教を重視するプロテスタントのスタイルを好んでいるのですが、キリスト教を受容するメンタリティーの種子はカトリックの保育園で植え付けられたものと言わざるを得ません。
その後、大学生になってからも書物を通じて宗教に関心を寄せてきました。しかし年齢が40代に入ると、幼いころに植え付けられた種子が成長してきたのでしょうか、人には生きる上での拠りどころ、信念・信仰が本質的に必要であると強く思うようになりました。では、なぜ仏教ではなく、キリスト教を選択したのかというと、なかなか一口では説明できません。しかし、神は愛であると説く教理に圧倒的な感動を覚えたこと、キリスト教が有する社会的積極性(隣人愛に基づく実践)に好意を抱いたこと、特定のキリスト者の人格を尊敬していること、などを主な理由として挙げることができるように思います。加えて、近代東アジアにおけるキリスト教史に対して学術的関心をもったことも大きな要因です。
以上、私が洗礼を授けていただいた背景について、思いつくままに書き連ねてきました。今後、水海道教会の会員として受け入れていただき、みなさまとともに信仰を深めていくことができることを切に願っております。

菅平スキーツアー2011           N.O

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1月2~4日、菅平に行ってきました。水海道教会のスキーツアーも今年で38回目ぐらいでしょうか。9時前に水海道を出てPA(パーキングエリア)でゆっくりお昼を食べてもお昼過ぎにはなじみの民宿、村田山荘に着きました。

ちょっと休んでからゲレンデへ。村田山荘から30mほど歩いて、後はスキーを履いて滑り降りるともうリフト乗り場。スキー人口が減っているのでリフト待ちはほとんど無し。今シーズン初のせいか何度か転倒するが次第に感覚が戻ってくる。腕前は万年中級でなかなか進歩が無いがスピードが楽しいのでガンガン滑る。筋力とコントロールの限界まで滑る。リフト終了の4時半まで休まず滑る。

この日は降雪は無いものの上はガスがかかってました。村田山荘に帰って大きなお風呂で筋肉をほぐしたら夕食。菅平は学生合宿のメッカなので料理は品数・分量とも十分である。この点はとても○である。

翌朝、窓から見ると今日は晴天。カメラを懐に入れて滑り出し。木々に張り付いた雪がきれい。大松山の頂上まで登ると東に菅平の町を挟んでダボススキー場のある根子岳、四阿岳。その右手奥に噴煙たなびく浅間山。北西には野尻湖のそばの妙高から連なる北アルプスの山々。南はるか遠くに富士山と見事な眺め。

大松山山頂で標高1650m,ふもとでも1200mあるので気温が低く降雪が無くてもガンで雪が作れるので積雪は十分。ただ、ここは一部競技スキーのコースになっているのでそのコースのところは固められていてほぼアイスバーン。ちょっと気合をいれて滑ります。

スキーヤーの四分の一はヘルメットにレーシングスーツの競技者で、全開で滑っている私の倍のスピードで駆け下りていきます。それが小学生の女の子だったりします。やっぱり競技者はレベルが違う。今日も昼ごはんも食べずに休みなしで滑る。

3日目、晴天。写真を撮りながら今日はお昼まで滑る。滑りながらカメラを覗いていたらコケました。荷物を片付けて1時頃菅平の町へ。いつもの店でいつものラーメンを食べいつものお土産屋さんに寄り2時20分頃、菅平を出る。

高速は渋滞も無く5時に水海道着。帰途、2時間40分は今までの最短かも。宿の予約はしてきましたので来年はご一緒にいかがでしょうか。ちなみに今年もFさんは滑らずに宿でのんびりしていました。

クリスマスの思い出          M.K

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写真は橋本町にあった旧会堂

クリスマスと聞くと気持ちがワクワクして、とても楽しい気持ちになるのは、幼少のころから年齢を重ねた今も変わりません。

小学生時代に終戦を迎えて、橋本町の礼拝堂でクリスマスを守れるようになりました。当時、日曜学校は礼拝堂に入りきれないほどの子どもたちで溢れ、上級生は二階だったと思います。

12月になると放課後は歌や劇の練習で賑やかになり、夜は青年会の方が集まってきて装飾などをしていらっしゃいました。「かみはあいなり」と大きな書き初め用紙に聖句を書いたのもその頃です。学年によっていろいろな聖句を書き、壁いっぱいになりました。

クリスマス祝会は夜6時頃から始まって、終わるのは10時か11時頃でした。「ああ、無情」の劇を一年下の人達がやった年は、どの学年も長い劇をしたので終りがとても遅かったと記憶しています。家の人達が怒って迎えに来ていたのですが、子どもたちはプレゼントをもらって大喜びでした。

今でも、クリスマスキャロルがテレビなどから聞こえてくると、当時のことをいろいろなつかしく思い出します。サンタクロースを信じて生活した日々は、夢のように過ぎてしまいましたが、イエス様の誕生が私たちにとって神様からの何よりの贈り物であることは昔も今も変わりません。

今の子どもたちもクリスマスをなつかしく思い、いつまでも教会とつながっていてほしいなと思います。神様はいつもこの世を愛して下さっている事を覚え、世界中が平和な日々であることを祈りつつ… 

待降節の中で            A.J

水海道教会に出席させて頂くようになって8ヶ月が経ちました。ファイル 205-1.gif時まさに待降節。ふりかえれば、昨年まで猛烈に忙しくクリスマスの準備をし、諸行事をやりこなしていたことが思い出されますが、それも、もう解放されました。牧会の現場を離れ隠退の身となった現在、時折、招かれて礼拝説教のご奉仕に赴いており、微力をもって神の御名を仰ぎ讃えたいと思っております。

さて、待降節といえば忘れられない思い出があります。1964年、結婚と同時に赴任した山口県は宇部緑橋教会での出来事です。

12月初旬の或る寒い日、教会の玄関に三十代の夫婦が訪ねてきました。聞けば、九州の炭鉱で働いていたが、経営縮小のため仕事がなくなり大阪に帰る途中で、旅費を援助してくれとのこと。

新任の牧師にお金がある筈はなく、わずかな額で勘弁してもらったまではよかったのですが、夫人をよく見ると、半袖のワンピースを着た妊婦ではありませんか。しかもかなり大きくなったお腹が透けて見え、いかにも寒そうです。ややあって、私が妻にめくばせをすると、妻も分かったとうなずいてくれました。

実は、私たち夫婦にも5月に第一子が出生予定になっており、妻はこの冬に備えて友人からもらった森英恵デザインのマタニティドレスを着るのを楽しみにしていたのです。しかし、目の前にいる寒空の旅の夫婦に会ったとき、自ずと未着用のドレスを提供しようという思いが募ってきたわけです。

5分後、件(くだん)の夫人はやや晴れがましい表情でそれを着て、感謝しながら教会を後にして行きました。私たち夫婦には不思議な充足感が残ったことを、今も思い出すことができます。

ヨセフとマリアのベツレヘムへの旅はこの季節。私たちに訪れた見知らぬ夫婦は、ひょっとしたら聖書の物語のように、救い主をどのように迎えねばならないかを示唆しているようでした。

導かれるままに            K.J

ファイル 190-1.gif今年の春以来、水海道教会に出席させていただいております。このたび牧師である夫が48年間の伝道牧会の生活から退き、私たち夫婦は思いもよらぬ神様のお導きでつくばみらい市絹の台に居をかまえました。
 
私自身は東京下町の生まれですが、結婚以来、山口県宇部市の宇部緑橋教会に34年間、そして東京は三軒茶屋教会で12年間を過ごしました。振り返れば、家庭の中は教会の仕事が優先でしたから、前半は子育てをしながら、後半は夫婦ふたりで常に全力投球で教会のわざに関わってきたという実感があります。

私たちのモットーは、〈神様に仕えつついと小さき隣人を愛すること〉でしたが、私の弱さや判断の誤りから起こる数々の失敗にも関わらず、おしなべて神様の慈しみに包まれ、多くの人々の人生にも関わるという恵みをいただきました。こんな環境の中で生涯の大半を過ごすことが出来たのは、まことに感謝にたえません。

今では隠退牧師となり閑居の身ですが、これも神様が私たちに良き休息のときをくださっていることと思い、素直に有り難く受け止めております。ちなみに私たちの子供は息子3人・娘1人、いずれも家族をもち、また孫6人がおります。
 
さて、よく隠退後の牧師が出席する教会を決めるのは難しいといわれますが、私たちも大分考えた上、最も近い教会に行こうと願っていたわけです。加藤牧師のお許しを頂き水海道教会に出席することになりましたが、そこが111年もの歴史をもつ教会であることを知り驚かされました。さすがに何代目かの信徒の方おられたり、教会の風格も十分に感じられます。そして有能な奉仕者が大勢いらっしゃることも心強い思いがいたします。
 
私にとって初めての教会ですので、できるだけ皆さまとお交わりをし、早く慣れていきたいと願っております。私は耳が遠いので、皆さまの心遣いやお誘いの言葉が聞こえないときがあり、失礼してしまっていることがあるのでは…と案じておりますが、その点はどうぞご容赦ください。

これからは何か私のできることを見つけて、小さな力ですが御教会に加えていただければ幸いに存じます。主に在りて

妻と一緒に               K.K

10年ほど前、医師に、妻の肝硬変は相当悪化しており、あまり長くは持たないと宣告された時は、全身の力が抜け落ちたような気持ちでした。そのとき以来経営していた会社を若い人達にすべて引き渡し、妻の介護に全霊を捧げる決意をいたしました。

こんな時、たまたま中学時代の同級会があり、この席で親友の退職牧師、小海寅之助氏と出会い、信仰に生きる彼の生き様を教えていただき深い感動を覚えたものです。

「君のようなキリスト教の信者となるにはどうしたらよいのか教えてくれ」と頼んだところ、とにかく教会に行きなさいと水海道教会を紹介してくれました。何度か教会に通っているうちに、私共夫婦二人、無心になって主にお祈りをすることが出来るようになりました。

そして二人で教会の牧師先生にお願いして洗礼をして頂こうと話し合っていたころ、妻の病気が急変し救急車で入院。この頃また、なぜか運悪く牧師先生も転勤となり、教会に牧師がいない状態となりました。

その後妻は退院と救急入院を繰り返すこと3回、昨年11月ついに担当医師から「間もなく最後ですから親族に連絡するように」との宣告を受ける状態となりました。

小海氏に電話して妻の洗礼をして頂きたいとお願いしましたが、「僕は牧師を退職しているから水海道教会の牧師さんにお願いするように」との返事。妻の命が今日か明日かという非常事態。強引に頼み込んで、翌日一番で小海氏が来院し私共夫婦に洗礼をしてくれました。

妻は今年1月5日安らかに眠るがごとく召天いたしました。終戦後、家庭のことは一切妻まかせ。妻には迷惑の掛け放しの連続でした。そんな私に介護のたび妻は「ありがとう、すみません」の連発でありました。介護の忙しさと気恥ずかしさで妻に言いそびれた私の言葉。

それは「妻よ、ありがとう。ありがとう。ありがとう。」

私の信仰経歴               M.S

昭和27年2月1日、三人兄弟の末っ子として水海道に生まれる。。昭和60年3月10日~平成12年1月10日まで建売住宅を購入して、石下町で生活していたが平成11年1月10日実家の水海道へ帰宅して現在に至る。

昭和32年、5歳の時。クリスマスの夜、当時二葉幼稚園の教師だった小野村よし子姉からイエス・キリストの誕生の話や、キリスト教の話を聞かされたのが始まりだった。

10歳の時、栄町福音キリスト教会の礼拝に出席した。高田牧師夫妻と一人の宣教師がいて、キリスト教のことを詳しく教えてくれた。クリスマス祝会にも出席して、イエス・キリストがヨセフとマリアの子としてベツレヘムの馬小屋で誕生した話を今でもはっきりと覚えている。約3年間求道生活を送った。

昭和52年から、ラジオ番組・鳥羽明師の「世の光」を毎日欠かさず聞くようになった。多忙な日々が続いたので教会へ行く暇はなかった。

昭和60年、岩井のT.I兄より伝道される。彼は谷和原の食堂のマスターとして働いていて、彼の妻と伯父という人も働いていて3人とも岩井キリスト教会の教会員だった。6月、岩井キリスト教会の礼拝に出席した。当時は牧師が井戸垣新師、副牧師が井戸垣弥生師だった。

昭和61年4月12日(日)、井戸垣牧師よりバプテスマを受ける。讃美歌は「うれしきこの日よ」と「わが君イエスよ」だった。約10カ月の求道生活が終わる。

平成15年、水海道独立キリスト教会に転入会した。
同じ年、三矢亮師が牧師をしていた水海道教会の夕礼拝に出席した。礼拝にも出席した。

平成22年5月、加藤久幸牧師より転入会を認められ水海道教会の教会員として現在に至る。

亡き母を思う心に我もまた短歌の道を歩みゆくなり
     (この歌は母が召されて2カ月後に母の意志を受け継ぎたいと思って作った。)

コスモスの花の匂える朝にしてさやかに歌の一首なりたり

ひとときを遊ぶ海辺に貝がらを拾えば指に潮の香匂う

駅そばの味なつかしい秋日和
             (平成15年10月南千住駅にて)

初夏の町古美術を見るいましばし
             (平成7年6月江戸崎へ行った時に)

北海道旅行

6月下旬、二泊三日で北海道へ行ってきた。メンバーは一緒に教区教会婦人会連合の役員をした人たち3人。当初は全員の5人で出かける予定だったが都合が悪い人が出て3人しか参加できなかったのが残念だった。

役員の任期が満了したとき、「別れ難い。卒業旅行(?)をしましょう。」という話が持ち上がって即座に実行が決まった。当初は日光や新潟を旅先に考えた。しかし「関東教区は離れましょうよ。」ということになり、最初の年は手堅く伊豆箱根二泊三日の旅となった。

今回はさらに遠く離れて北海道へ出かけた。メインを旭山動物園に設定し、小樽、札幌、支笏湖などをルートに加えた。北海道は全員訪れたことがあり、私も5回目の訪問になる。要するに行き先はどこでもいい、一緒に楽しみましょう、ということ。
 
役員になった当初は「何で、私が…」と不満たらたらだった。しかし、2年間、同じ目的で会い、意見を交わし、役割を果たしていく中でよき仲間になっていった。勿論、同じ信仰に立っているというベースがなかったら、こうはいかなかったろう。イエス様の大きな恵みに違いない。

任期満了してからの2年間に、Mさんの入院、Oさんの夫の病気と、思いがけないことが起こった。今回会って、Mさんが後遺症もなく完全に回復したことを確かめ、Oさんのご主人も幸い小康を保っているということを、Oさんの口から直に聞いて本当に安心した。

しかし、Uさんは息子さんの奥さんが旅行の1週間前に入院ということで今回参加できなかった。生後二ヶ月の赤ちゃんの世話をしなくてはならなくなったのだ。

たった2年間の内に、それぞれの身の上にいろいろなことが起った。だから「会いたい人には会い、行きたいところへは行き、あまり我慢をしないですごしましょう。」という話になってくる。「あまり不満をためないで、のんきに。というのが楽しく生きるコツね。」というのが私たちの共通理解。
 
楽しい旅だった。小樽では歩いて見物するつもりだったが、駅から100メートルも行かないうちに、イケメンのおにいさんに捕まり人力車に乗ってらくらく見物。お土産屋さんがたくさんある通りで降ろしてもらい、後で考えると余り必要でないものを買ったりした。

旭山動物園は暑かった。何と32度。どこが北海道なの?という感じだった。陸ではよちよち歩きのペンギンが水の中ではまるで空を飛ぶように泳ぐのを見て「ペンギンは鳥」なんだと改めて思った。

アザラシやシロクマが水の中ですばやく動くさまもとても面白かった。動物園の帰りに富良野、美瑛の風光を楽しんだ。ラベンダーには少し早かったようだったが…。

最後の日は、観光タクシーで、札幌、羊山公園、支笏湖とステレオタイプのコースを回ってもらった。支笏湖では水中を見ることのできる遊覧船に乗って、年月をかけて波が削ったのだという湖底の岩の美しい波模様を見た。

新千歳までタクシーで送ってもらい早めの便で羽田に帰ってきた。
(H.M)


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