思いが定まらない時、目の前に成すべきことがありながら向きあう気になれない時、そして、自ら祈れない時、私は他の人の「祈り」に耳傾けます。
思うままにならならい時に
神さま 夜に寝て 翌朝起きれば
また新しい元気にあふれた一日が
はじまるのだと ずっと若い時から
あたりまえのこととして生きてきました
しかし 一夜の眠りのあとで
朝がやってきても 疲れがとれないで
起きること 生きることが
苦痛としか思えない朝が いつの頃からか
私の人生にもやってきたのです
もう起き上がれない
きょう一日の与えられた仕事から
逃げだしたい 動けないという
いらだちと あせりの日々が続きました
思い通りにゆかない日々
生きることが思うままにならない時に
それでも 一日を必死に生きてきました
そんな苦しみと痛みにみちた歳月を通って
今 少しずつ 苦悩がうすらぐのを覚えます
あの苦しかった時は 私の人生に
何の意味があったのか
思うままにならなかったからこそ
自分の限界も 弱さも
思い知ることができたのです
他人の弱さや痛みに 少しでも
共感できる心を与えてくださったことを
今 心から感謝して生きています
(石井錦一「癒されない心の祈り」より)
他者の祈りを聞きながら、自分は今そう思えない、さりとて、自分の気持ちを表すこともできない、と感じます。しかし、その人の祈りに導かれ、その人のように、自分の心の向きが変わることがあります。自分を見つめていたことから、自分を見ていてくださるまなざしに心開き、語りかけてくださる言葉に耳傾けることができるようになります。一人の時こそ、祈りは大切かと想います。