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旅の思い出            M.I

壮年会リレーエッセイ 第2回

旅の思い出             

私の旅の思い出はJR上越線沿線にある。水上と越後中里、そして越後湯沢にある。私が一人旅を始めたのは17歳から27歳までの10年間であった。
越後中里のスキー旅行が旅の始まりであった。順を追って書いてみたいと思う。

最初は群馬県の水上である。
ご存じのように水上は温泉と秋の紅葉で有名な観光地でもある。 特に谷川岳の紅葉はとても素晴らしいところであった。

次は越後中里で。ここは温泉地ではなく、冬は駅前がスキー場のゲレンデになるので土、日、祝日はすごく混雑し、帰りも列車は混雑で身動きがとれないほどだった。予定の列車に乗車出来ないときもあり、その時は遅い列車で帰宅したため、帰りは夜中になった。なじみの旅館もあり、現在もこの板屋旅館とは年賀状のやり取りをしている。

中里は駅前がスキー場でゲレンデということもあって便利なため、よくここをスキーの目的地にした。
当時は会社勤めをしていたので夜行1泊2日の旅で、たまに有休を利用することもあった。
スキーは上達することなく自己流だったがスキーが出来るということで満足感があった。
旅館で味わう笹団子や笹ゆべしの味が、好きなコーヒーの味とマッチしてまた格別の味だった。

最後は越後湯沢を紹介する。
湯沢は中里から列車で約10分、ここも便利な観光地であった。駅前の会館「雪国」ではレストランと観光土産店を営業していて、ここもスキー場があるから冬はスキー客で混雑した。
レストランの味噌ラーメンの味が今も忘れられない。当時はレストランのマスターは水戸生まれの人で親しく接していた。ここのお店の味噌ラーメンと笹団子と野沢菜のお土産を目当てに立ち寄った。そして湯沢町の温泉に入って旅の疲れをいやして帰宅する。そんな私の楽しかった若き日の思い出であった。

壮年会リレーエッセイ第1回        M.K

私のクリスマス

「雪道や降誕祭の窓明かり」 杉田久女

私はこの句に自分が生まれた会津の雪降るクリスマスを思い出す。野も森も、そして町もいっさいが降りしきる雪の中のクリスマス。60年以上も前のことになる。

雪国は寒かった。いま、わたしの家ではどうも私が一番寒がりのようだ。会津の山奥で生まれ育ったにしてはおかしい、と妻が言う。田舎の家は家屋そのものが駄々広く、居間は障子で囲ってはあるがすき間風が通い、板敷きで暖房は囲炉裏の火だけ。炬燵が別の部屋にあった。

雪国は、冬になると雪囲いをする。先ず家をぐるりと板でかこい、その外側をさらに萱で覆う。木枯らしから家を保護し、屋内の炉火の暖を外に逃がさない工夫である。それでも寒さから逃れることは出来なかった。

最初のクリスマスは、山の分校から町の高校に入ってからはじめて経験した。雪のなかのクリスマスは、チャペルも樅の木もすべてが北欧のようなクリスマスであった。

北欧といえばずっと後になって、ある年の1月初めにドイツに旅行したことがあった。雪降る町筋にはまだクリスマスツリーがあり、イエス誕生の馬小屋の飾りが窓越しに見えて驚いたことがある。

昭和26年、会津の田舎町はまだ戦後のアメリカンブームが濃厚であった。福島県会津高田教会の遠藤栄牧師は、敗戦後のにわかキリスト教ブームの波に乗ってアメリカンボードの援助によりチャペルを新築し、宣教師を招いた。賀川豊彦に心酔し、賀川を招いて大講演会を開いた。賀川が始めた農民福音運動を会津の地で実践し、福音新聞「会津福音新報」を発行した。同紙は今日も続いている。

遠藤栄牧師は、東北教区議長を務め、ローマ法王に謁見し直接祝福を受けたことを誇りにしていた。私は偶然のきっかけからこの教会に通い、遠藤牧師の薫陶を受け、1951年クリスマスにこの牧師から受洗した。

教会のクリスマスには窓の外に町の子供たちが大勢集まり、中で開かれている日曜学校の子供たちが演じる劇や合唱などをうらやましそうに見ていた。

町民クリスマス大会はその拡大版であった。町のみでなく、近隣の村々からも若者たちが続々と会場に押し寄せ、民主主義の国「アメリカの宗教」の雰囲気に浸ったのだった。

私たち高校生と青年会は、事前に多くの時間と労力を費やして、町の商店を一軒ずつ回って寄付金と献品をつのり、クリスマス大会の晩、集まった町民にくじ引きで配布した。私たちはふるって合唱し、劇を演じた。

高校2年であった私は、こうして教会に慣れ、キリスト教信仰に親しんでいったが、入信の動機は不思議なものであった。その後の信仰も単純ではなく、多くの経験を重ねることになった。
それは次の機会にお話ししたい。

I先生と過ごした日々 Y.N

「I先生がいたら『ここの草も取る?』ってきっというよね。」「そうそう。」と、その口調を真似ながら、元教師仲間達と会堂前の草取りをする。いつもいるはずの人がいない。この現実に心の平衡感覚を狂わせられて、過ぎし日の様々を思い出す。

「病気で休む時、戸棚の整理をしないと休めなかったのよね。」とKさん。I先生は大変綺麗好きで、幼稚園は整理整頓が行き届いておりました。しかし、誰もがそんなに上手に整理整頓ができるはずもなく、各保育室では戸棚に何もかも押し込んで誤魔化していたものです。(もちろん、私を含めた一部の者ですが)。

ですから、急に休まねばならなくなった時は、代わりに保育をして下さるI先生が部屋に入る前に、急いで戸棚の整理をしないと恥ずかしくてお願いできなかったのです。特訓のおかげで園舎は古くなっても「きれいに手入れされていますね。」と見学の方に褒められたものでした。

私が幼稚園に就職して一番驚いたのは対人関係でした。以前の職場でその事に悩まされていた身に、ここはまさに『天国』のようでした。I先生が寛容な心で私たちを見守り、生活全般にまで心配りをして下さいましたので、職場全体もそれに象徴されるような雰囲気でした。
 
期待に応えられるように頑張らねばと思った矢先、私は何の働きもしないまま、産休をもらう状況になってしまいました。申し訳なさに園長先生やI先生の顔がまともに見られませんでした。

そしてその後、幼稚園は出産ラッシュで、一年に4人ずつ2年間、次に3人、2人と続き・・・さらに子育てをしながら勤務をする教師が多くなりました。どんな時でも笑顔で対応して下さり、身体を労わって下さったI先生のおかげで長い間働く事ができました。

二葉幼稚園は子どもたちの「善くなりたい」という思いを受け止めて、その育ちを助ける保育を目指してきましたが、I先生こそ、私たちをそのように見て育てて下さっていたのだと、今更ながら気付かされました。

突然のお別れで感謝の思いが募ります。どうぞ、この思いがI先生に届きますように。

哀悼  悲しむことは止めて・・・ A.T

毎日、夕方4時半「Aちゃん、顔見にきたよ。」と玄関に声がする。「昨日の顔と変わってないよ。」そんな意地悪な答え(反省しています。)と共に出て行くと「5時になると暗くなるから・・」と一言交わしただけで帰られる。
 
今日も次男が夕方立ち寄り「いつも孝子先生とここでお会いしたのにな、いい先生だったよな。お母さん、寂しかっぺ?」と慰めてくれた。本当に寂しく、悲しい。亡くなる前日、一枝さんと二人で「もう、こんなに寒くなったのだから、朝日を見るのは少し休んだら・・・」と、少し先輩なのをいいことにきつくお説教をしてしまった。「そうね。」と言ったのに・・・私たちの止める力よりご主人の「もうそろそろ俺の側へ来いよ。」と引っ張る力の方が強かったのだろう。神様はそんな風に計らって下さったのだろう。
 
亡くなった翌日、Hさんと現場にお祈りに行った。「何でこんなところを渡ったのだろう。Tちゃんも・・・ほんとにもう・・」との思いがあった。でも、近所の人の話では「この辺は道幅が広い。近くに信号のある横断歩道はあるが、老人にとっては信号が青いうちにわたり終えるのは大変。急いで途中で転ぶ人もいる。途中で一休みできる中洲(中央分離帯)のある、信号のないところを渡る人が多いんですよ。」ということだった。「ああ、そうなんだ」と納得。ほっとした。

亡くなる前の日曜日の礼拝の後「今日はドライブに行きたい」というTちゃんの希望もあり、Sさんを送りながらRさんの車で守谷方面へ行った。

秋晴れの爽やかな日だった。「先日、電気屋さんに頼んで暖房(エアコン)をつけてもらい、今年は石油ストーブは止したのよ。」等と話していた。「灯油を入れるのも重たいものね、良かったね。」などと話し合った。
 
思い出は沢山あり過ぎて、何を書いたらよいか分からない。思えばTさんの口から人の悪口を聞いたことがないのに気がついた。本当のクリスチャンだった。私達が見習わなくてはならないのに、姉さんぶって偉そうなことばかり言ってごめんなさいね。私達の方が教えられることが多かったのに気がついた。

Tさん、長いあいだ仲良くしてくれて有難う。今は大好きだった昊さんとゆったりと過ごしていらっしゃることと思い、悲しむことは止めましょう。
感謝と寂しさの中で心が乱れて、乱文になりました。

青年会リレーエッセイ 第16回

趣味は温泉

いよいよ回ってきたリレーエッセイの順番。何を書こうかな?と考えましたが、7月から先生方が、宝塚、テニスと、趣味について書かれていましたので、私も同じく『趣味』について書きたいと思います。
私の趣味、それは温泉に行くことです!!温泉と言っても近くのスーパー銭湯ですが…。今まで趣味と呼べるものがなかった私ですが、1年程前から週末になるとお風呂セットを片手に出かけています。(お風呂セットとは、カゴに入れられたシャンプーやリンスなどです。常連さんはみんな持参しています。)よく行くのは取手の『湯楽の里』です。お風呂の種類も色々ありますが、お気に入りは、二酸化炭素風呂です。お湯はぬるいのですが湯船につかっていると段々と温まり、皮膚に小さな泡がつきます。効能としては、血行促進・美肌効果・ストレス解消などがあります。
湯船につかり一週間の疲れをお湯に流し、湯上りコーヒー牛乳を飲むと、また来週も頑張るぞ!という気持ちになります。私にとって至福のごほうびタイムとなっています。最近は色々な場所のスーパー銭湯巡りをしています。もしよい場所を知っている方がいましたら、ぜひ教えてください。

※「青年会リレーエッセイ」は、来月で終了し、12月から「壮年リレーエッセイ」が始まります。乞ご期待。

青年会リレーエッセイ   第16回

継続は力なり            A.T

この二ヶ月“好きな事(趣味)”が書かれていましたので、私も便乗して、自分の趣味について書かせて頂きます。ファイル 461-1.jpg

私は今、テニスに夢中です。始めたのは10年前、幼稚園で働き出し7年経った頃。少し自分に余裕が出てきて、何かをしたいと思い始めました。どうしてテニスかというと、もともと体を動かす事が好きだったのと、夜通える講座限定だった為、その当時はテニスしか時間が合いませんでした。

今までは誰かと一緒に習わないと嫌だという、内向的な性格でしたが、初めて一人でやってみようと思えたのがテニスでもあります。

形から入る私は、ラケット・シューズ・ジャージとそろえ、いざ講座へ。上級者・初級者コースに分かれ、初級者。ボールを打つ難しさ、ラケットの素振り、同じ練習の繰り返しで、始めは沢山いた仲間も半分以下に。
私は、負けず嫌いな為、地道に練習に通いました。

徐々に打てるようになり、ラリー(相手との球の打ち合い)が続くようになりました。それが嬉しくて、毎週金曜日が来るのが楽しみになりました。また、趣味が同じ仲間も出来ました。性別も職業も年齢も皆違います。

だからとても良い刺激を受けています。今でも仲が良く、テニスサークルを作って講座の他にも月に一回テニスをしたり、食事会をしたり、遊びに行ったりしています。

初級だったクラスも、今では上級者になりました。そして10月には、試合に出てみることになりました。“継続は力なり”、まさにこの言葉通り、続けていれば力になるのですね。

今でも毎週金曜日は、まるで子どものようにソワソワし、仕事を終えると早々に帰ります。雨が降りそうな時には“降らないで”と心の中で祈ってしまう程です。
テニスは年を重ねても続けられるスポーツ。体が動く限り、続けていきたいと思っています。

聖書輪読会で詩編を読む     K.S 

ファイル 460-1.jpg聖書輪読会は、毎週主日礼拝の前に行う。黙とうで始まり、輪読、牧師先生の祈りで終わる。先生の聖書の注釈はなく、時に短いコメントがあるだけ。出席者が聖書の問いかけに各自心の中で応える場です。

日常生活にあって聖書を殆んど読むことのない私にとっては、輪読会は貴重なひと時である。

詩編を輪読することとなり、私は冗談に、「生きている間に読み終わるか、何篇まで読めることが出来るか」といい、読み始める。毎週1篇を1節づつ輪読、約3年かかり、詩編150篇を終えた。

詩編は韻文で響きがあり、読んでいる中にリズムに乗り気持ちよく読むことが出来た。読み進めるうちに、詩編の核心を自分の生き方に何時の間にか重ね合わせていた。しかし、旧約時代のユダヤ人の生き方、考え方との違いから違和感のある個所もある。

情けないことに加齢に勝てず、書物を読んでも読むそばから忘れ、読み返すことが多い。詩編もこの例に洩れず。

有名な聖句のみ読んでみる。

22編2節 
 私の神よ、私の神よ 
 なぜ私をお見捨てになるのか。
 なぜ私を遠く離れ救おうとせず
 呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
絶対なる神信頼がある故、精神的肉体的大きな苦痛の中、叫ぶことが出来たのだろう。そして、ここで83篇2節を思い出す。
 
 神よ、沈黙しないでください。
 黙していないでください。
 静まっていないでください。
沈黙の神です。

51篇7節
 わたしは咎の中に産み落とされ
 母がわたしを身ごもったときも
 わたしは罪のうちにあったのです。
これを読んだときは大きな驚きと抵抗を感じた。
ところが

139篇13節
 あなたは、わたしの内臓を造り
 母の胎内にわたしを組み立ててくださった。
人間の誕生について、全く正反対の事が書かれている。

23篇1~3節
 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない
 主はわたしを青草の原に休ませ
 憩いの水のほとりに伴い
 魂を生き返らせてくださる。
羊のように弱い迷いやすい人間を何時も見守っていてくださる神。

121篇1~8節
 目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。
 わたしの救いはどこから 来るのか。
 ………
 あなたの出で立つのも帰るのも
 主が見守ってくださるように。
 今も、そしてとこしえに。
皆と共に歌い、神を賛美したい。
長寿祝福礼拝の招待状を頂き、頭に浮かんだ詩

25篇7節
 わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず
 慈しみ深く、御恵みのために
 主よ、わたしを御心に留めてください。

108篇2~3節
 神よ、わたしの心は確かです。
 わたしは賛美の歌をうたいます。
 「わたしの誉れよ
 目覚めよ、竪琴よ、琴よ。
 わたしは曙を呼び覚まそう。」

夏椿によせて (父への思い)      S.I

  また立ちかへる水無月の
ファイル 446-1.jpg  嘆きを誰にかたるべき。
  沙羅のみづ枝に花さけば
  かなしき人の目ぞ見ゆる。  
                  芥川龍之介


5月の風に乗って父は逝きました。こんなに早く別れることになるとは思いもしませんでした。庭の夏椿のつぼみはまだ青く咲くにはまだ間がありました。

4月のはじめ、「様子が少し変」とグループホームから連絡を受け、病院で受診。入院を断り、帰ることを受け入れてくれたグループホームで小康状態で1週間を過ごしました。呼吸が苦しくなり、救急車で運ばれた病院で20日間入院。歩くことも食べることも出来ない寝た切りの状態となったため、自宅へ連れて帰ることを決心しました。

自宅に帰り、「大好きなお風呂に入りたい」とそのためだけの体力がもつ様に、往診の先生に点滴をして頂いて、お風呂に入ることも出来ました。そして近しい人々との最後の別れの時を持つことも出来ました。往診に来ていただいた先生の「お父さんは晴れた気持ちのよい日にお別れするような気がするな~」とのことば通り、5月の風のすがすがしい日のその晩に亡くなりました。
 
方々に父は幸せだと言っていただきましたが、本当にこれでよかったのだろうかという思いは今でも心に残って消えません。
 「苦しそうに見えるけれど本人はさほど苦しくはないのですよ。」という医師のことばが慰めにはなりましたが、やはり苦しげなことには違いありませんでした。
「早く楽になれますように」という思い、「いやまだ生きていて欲しい」という思い、相反する思いがせめぎ合いました。

思いがあふれて大泣きをしてしまった夜、ベットの両端にいた私と主人の手を握った父。その両方の手を自分の前に引寄せ、二人の手を重ねようとした父。ことばはもう聞きとれなくなってしまっていたけれど、しぐさで勇気を与えてくれた父。

認知症だった父の最期の1カ月、昔の父に戻った1カ月は、神様からのプレゼントだと、最良のプレゼントだと思っています。
 
庭の夏椿が今年も咲いて、散っています。朝まだ早い時間、雨に濡れ散ったばかりの夏椿をきれいだと言って、カメラに収めていた父は、今年は空の上から眺めているのでしょう。

「いのち」の物語   

―「草間ちせ」と「草間みつ」-
          水海道教会(担任教師) 太田 光夫
ファイル 445-1.jpg
水海道教会の出身教職に『草間ちせ』先生という方がおられました。わたしの母の従姉妹で、最年長教会員・Mさんの姉にあたる方です。この2013年現在、教会に集う人たちでは、ちせ先生について、私を含めて7・8名の者が知っているだけだと思います。

出身教職と書きましたが、戦前も戦中も、そして、戦後も教団の中での位置づけは不安定なものでした。説教者(pastorパスター)として牧会に励んでおられる方もいますし、牧師夫人養成機関で教育を受けた者と受けとめられたり、複雑に女性教職やキリスト教教育主事の職責問題まで含まれてくるでしょうが・・・。

今回は、わたしの知る限りの、2人の女性の人生を紹介してみたいと思います。特にそのヒバク証言に聞きたいと思います。

ファイル 445-2.jpg草間ちせ先生は、若いときに献身の志を、主なる神からいただきました。ちせ先生は1904年に誕生されていますから、15歳で1921年4月に、単身大阪に出、「神の召命」に応えるため、大阪にあったランバス記念伝道女学校で、伝道者になるための学びを始めました。

ここに不思議さを抱くのですが、妹の草間けいさんから聞かせられたのが、ちせ先生は神学校時代、築港八幡屋教会に出席していた(築港出身の教会員の1人からも証言をいただいている)ということです。

大阪には、大手前教会、両国橋教会(聖路加の日野原先生のお父様が牧会していた教会)、鶴町教会、八幡屋(築港)教会と4つのメソジスト系の教会が第2次世界大戦前にありました。その4つの教会が合併したのが、わたしが遣わされていた東梅田教会です。そんなところにも繋がりを感じます。

19歳でランバス卒業後は「婦人伝道師」としての歩みを始められました。(後に、ちせ先生の妹、Mさん(最年長教会員)の姉の『草間けいさん』もランバスで幼児教育を学ばれ、大阪で長く幼稚園の現場で働かれています。)

1945年4月、呉にあったメソジスト系の教会から、広島流川教会の婦人伝道師として転任され、妹のMさんと一緒に転居されています。後から思えばちせ先生とMさん姉妹は、原子爆弾によってヒバクするために転居されたのだと思えます。

【註】ランバス記念伝道女学校:後に聖和大学の中心になった。聖和大学は関西学院に合併されている。

ちせ先生の新しい任地広島流川教会には、留学から帰ってきた若い新婚の牧師、谷本清先生の御家族がおられ、生まれて間もない「紘子(こうこ)」という赤ちゃんもいました。牧師館と伝道師館も隣り合って建てられていたようです。

さて、わたしが東梅田教会へ赴任した年、1990年の大阪教区の平和聖日の集会だったと思います。その集会は、東梅田教会を会場に行われました。講師として壇上に立ったのが、『近藤紘子』さんという北千里教会の牧師夫人でした。近藤紘子さんは、自分の被爆体験として、赤ん坊の時にヒロシマでヒバクしたときのことを証言として語られました。

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《写真説明》被爆直後の広島市内。手前にかろうじて形をとどめているのが広島流川教会。ここでちせ先生が被爆し、「紘子ちゃん」を土塊の中から掘り出した。この町を歩いたMさんは放射能二次被爆の苦しみを負った。

『……1945年8月6日の朝、いつものように1日が始まっていました。夏の青空にアメリカ軍の爆撃機B-29が1機飛んできた以外は、……。そのB-29がヒロシマに原爆を落とし、『人類がかつて経験したことのない』状況が始まったのです。

広島流川教会の牧師館も伝道師館も爆心地から1000㍍余りのところに建っていました。2軒とも爆風によって潰されてしまいました。その時、牧師館には赤ん坊のわたしと母親、伝道師館にはちせ先生が室内におり、3人ともつぶれた建物の下敷きになってしまいました。

まず伝道師館からちせ先生が自力で這い出しました。潰れた牧師館を見て、瓦を手でどかし、土塊(つちくれ)を掘り、「紘子ちゃ~ん」とわたしの名を叫びながら、また土塊に立ち向かったのです。

そのうち、かすかな声が土塊から聞こえて来ました。母が「紘子を助けて」と言う声を上げ、それまで以上に、ちせ先生は上から、私の母が下から、それぞれに声をかけ合い、2人で潰れた家の中から、赤ん坊を掘り出しました。その赤ん坊がわたしです。………』

この話を間近で聞き、話している人を見、わたしは不思議な感覚に襲われていました。私が若いとき、母の従姉妹(「川又おばちゃん」とわたしたちは呼んでいました。)が、母・としが、わたしに繰り返し聞かせてくれファイル 445-4.jpgたあの話ではないか。

あの話と寸分違わぬ話が、『自分の被爆体験』として、わたしの遣わされた教会で、眼前の聴衆に語られている。不思議さと言うより、畏れを感じていました。

講演が終わって、思わず近藤紘子さん(結婚されて姓が変わっておられました。旧姓は谷本と言われます。)に、『わたしは、草間ちせの従姉妹の子です。お話しくださったことを小さいときから聞かされて育ちました。』と、語りかけていました。

近藤紘子さんは「ちせ先生はお達者ですか。」と聞かれ、大分前に召されたと伝えると、「母に伝えます。母も喜ぶでしょう。」とだけ言われた出会いでした。

さて、もう一つの物語、Mさんの物語です。Mさんはちせ先生と暮らしていましたが、その時代、国家総動員のもと、8月6日も、勤労動員をかけられて、ヒロシマから一山越えたところにある軍需工場で、働かされていました。その時にヒロシマの方角に大きな白い「キノコ雲」の立ち上がるのを見、姉・ちせ先生の安否が心配になったそうです。

Mさんは歩いてヒロシマへ向かいました。ちせ先生を捜し出そうとしたのです。しかし、元気だと見られたMさんは、ヒバクシャの死体処理を手伝わされ、その中にも姉の死体がないか探し続けました。

数日後、駆り出された仕事から解放され、全てが破壊された町並みを記憶を辿って歩き、広島流川教会に近づいていきました。

この時Mさんは原爆直後に爆心地付近を歩いたため、ちせ先生のように直接被爆体験をした1次ヒバクシャとは違いますが、2次ヒバクシャになっていました。

流川教会が近づいたとき、「みつ-」という声を聞き、声の主の方にちせ先生のいることを発見しました。「ちいちゃ-ん」「みつ-」生きていた2人は、走り寄り、固く抱き合いました。その時の喜びを何度も何度も、Mさんは語られています。橋本町に教会堂があった時代の愛餐会でも、この天満町に移ってきても、Mさんは語り続けています。

二人はこの後、ヒバクシャとして、苦難の道を歩くことになります。『ピカがうつるから、あっちへ行け』、『入ってくるな』とヒバクシャは全国で差別の対象にされました。

1946年春、ちせ先生はヒロシマから生家のある水海道の川又町(当時は谷和原村大字川又)に帰ってきました。ちせ先生は差別にも負けませんでした。川又のあの古い家はちせ先生が、自分の働き(婦人伝道師)の場として生きられた家です。

また、子どもたちを集めて「土曜学校」を開いたところです。水海道教会の当時の青年たちが、応援に来てクリスマスを祝ったところです。わたしの知っている限り、その頃の青年たちも御許に召されました。

伝道の日々は決して数値として残るようなものではありませんでした。教会員の数が増えていくこともなかった。無給に近い、単身の婦人伝道師の暮らしは大変でした。その貧しさに胸を痛めたランバスの同級生が、ちせ先生をランバスの寮監として招くことを決意した場所です。

寮監としてちせ先生は大阪へ赴き、入れ替わるようにみつさんが川又へ移ってきました。1960年頃です。大阪へ行ったちせ先生は、間もなく病を得、1964年1月14日原爆の放射能ヒバクによる認知症のため召天されました。長寿の草間系の人たちの中では、とても短い一生でした。

Mさんは川又でひとり暮らしを続けながら、毎週日曜日には両手に礼拝堂に飾る花を抱えて、何十年も礼拝に通いました。数年前、自宅を引き払い、常総市内の特別養護老人ホーム・つくばキングスガーデンで、穏やかな日を送っています。先日99歳の誕生日を迎えましたが、若い頃は長く原爆症に苦しみ、不安の中に過ごしていました。

わたしにとって、2人の被爆体験は「平和」という文字とか、「原子爆弾」だけを想起させるものではありません。ちせ先生がその母と一緒に、建物の下に埋もれてしまいそうな「いのち」を必死に掘り出した、紡ぐ「いのち」の物語です。

大阪時代、阪神淡路大震災を経験し、その時、阪急西宮北口駅のそばにあった家が、ペシャンコに潰れていたのを見たとき、その家に住んでいた人を思わされました。「主の祈り」だけが口をついて出てきました。

Mさんが、口には言えない辛さの中で、何十もの、皮膚が垂れ下がっていたり、黒こげの遺体を確認し続けたのも、姉の「いのち」を見出すためでした。「いのち」を生み出す性、「いのち」そのものの生、「いのち」を与える聖……。私は今日一日をどのように生きるのか。求め、祈りの中に示されるものを受けとめたいと願っています。

わたしたちの教会に連なる人の中には、このような被爆体験者がいる。「いのち」を必死に守った仲間がいる。平和を祈るこの8月を、わたしたちの祈りと行動の時と覚え、ご一緒に歩いてみませんか。砂浜に残るのは、たった1人だけの『足跡』ではありません。

青年会リレーエッセイ 第15回

せっかく頂いた“リレーエッセイ”という時間。先月のE.Aさんのエッセイに引き続き、今月も“宝塚”の話題です。

私と宝塚の出会いは小学5年生の時。当時仲の良かった友だちの一人に大阪出身の宝塚大好き少女がおりました。彼女の「宝塚歌劇団ごっこをしよう!」という一言から全てが始まりました。

彼女が台本を書き、メンバーを集め、練習し、お化粧もして、公民館を借りきってステージ発表をしました。お客さんも呼んで、二公演も行ったのです。今、思い返すと恥ずかしい限りですが、とても楽しい思い出です。
 
中学に進学してからは宝塚から離れた生活をしていましたが、江美さんに誘われて、憧れだった劇場で“生”の公演を観ることができたのがちょうど一年前。それから私の宝塚ライフが再スタートしました。
 
宝塚の美しさ、華やかさはE.Aさんが先月たっぷり書いてくださっていますので、私はちょっぴり違う視点で。
 
宝塚歌劇団に在団している女優さんは皆さん『生徒』さんです。1年目の新人さんも20年目のベテランさんも皆同じ“生徒”と呼ばれます。何年宝塚の女優さんとして在団していても常に勉強を続け、驕らず謙虚に過ごす様をこの“生徒”という呼び名が表しているように感じます。

また、生徒同士のつながりも強く、上級生は下級生に自分の持っているものを惜しげもなく伝え(役作り、生き方等)、下級生は上級生からたくさんのことを教えてもらい、それを自分のものとします。しかし、そこで満足するのではなく、自分でも悩み、考え、血のにじむような努力を重ねます。

そして皆一様に、いつでも感謝を忘れず、謙虚に過ごしているのです。たくさんの人に愛される夢の世界を守るのは、携わる全ての方々の大きな努力の上にあるのです。宝塚はそんな一人の人間としても尊敬できる人たちの集団であり(それら全てに欠ける私にとって、とても憧れる方々なのです!)魅力なのだと思います。

宝塚は来年100周年を迎えます。先人の教えを胸に刻み、進化し続ける、そんな大きな力を持っている宝塚の世界を体験してみてはいかがですか?


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