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今年もいろいろありました   加藤輝勢子

2017年も後2週間余りで終わろうとしています。今年も色々あったように思います。

2015年に水害に遭い、牧師館を建てなおすため、2016年夏にアパートに移り、今年の5月に牧師館に戻って来ることができました。まだ、荷ほどきができていないものもありますが、落ち着いた生活を送っております。感謝。

6月、姉と一緒に実家を処分するために、北海道へ行きました。92歳の母が家の処分を決めたのがきっかけでした。実家には誰も住んでいませんし、滅多に帰っていませんでしたが、それでも、もう実家へ帰るということはできなくなったのだと思うと少しさみしい感じがします。北海道は帰るところではなく、行くところになります。

8月、9月職場では大きな地域行事、お出かけプログラムがありました。ことごとく悪天候にたたられました。8月の花火大会は他の地域では、悪天候によるけが人も出ていたようですので、何とかできたことは感謝なことですが、地域の方々の心温まる言葉にとても励まされました。

8月に私は60歳の誕生日を迎えました。還暦です。2004年3月に神学校を卒業し、4月東駒形教会、本所賀川記念館に入職して今年度で定年を迎えます。とは言っても継続雇用でまだ働かなければいけないのですが、一応の区切りが来ます。

常務理事として、館長として早く後任を決めなければいけないのですが、当面2018年に賀川生誕130周年、2019年本所賀川記念館50周年、2023年に関東大震災100周年記念などがあり、本所賀川記念館の改築もあり、神様の御心ならば、これらのことの道筋をみんなと共につけなければいけないです。

水海道教会は、6月に復興記念礼拝を献げました。ひとまず建物に対しては区切りがつきました。教会に連なる子ども園の地域に証しする業、教会が地域に貢献できること、そして何より自分たちが神様に生かされて赦されて、歩んでいる日々を感謝します。

不確実性の世に祈る       加藤久幸

12月8日(金)毎日新聞のコラム「余録」は、大変心に触れたので、全文を紹介したいと思います。
   ✻
願いをかなえるランプの魔人ジョークの一例である。ある人がランプを拾ったら魔人が現れたので、「月に行きたいからハシゴをかけて」と頼んだ。だが「ワハハ、いくらワシでもそんなむちゃはできんよ」

▲では地上の話ならばと「パレスチナとイスラエルの和平を実現してほしい」と頼むと、魔人は「エッ、えーと前の願い何でしたっけ」。千夜一夜物語の魔法も到底通用しない中東和平だ。そこに火を放つかのような演説である。

▲トランプ米大統領はエルサレムをイスラエルの首都と認め、米大使館を移転する方針を表明した。和平仲介への関与は続けるとしたものの、仲介役の一方的な態度表明への激しい反発はパレスチナだけではなく中東全域に広がっている。

▲大統領の願いはただ一つ、ロシア疑惑で揺らぐ政権の浮揚へむけた国内の支持基盤固めらしい。だが魔人は警告しなかったのか。それが中東の安定を破壊して、テロを挑発し、米国民の生命もを脅かす制御不能の混乱を呼び込む恐れを

▲わが子すら神の犠牲にしようとした聖書の預言者アブラハムを崇敬するユダヤ教、キリスト教、イスラム教は「アブラハムの宗教」と呼ばれる。その三つの信仰がともに聖地とするエルサレムを政治対立に巻き込む浅慮が空恐ろしい

▲物事のリスクの計算すらできない五里霧中を「不確実性」というが、まさに中東、いや世界に不確実性の霧をまき散らしたトランプ演説だ。人のいい魔人には手に負えない呪文「米国ファースト」の魔力である。

 
かの地は繰り返し対立が存在し衝突の絶えない場所です(朝鮮半島も)。そこは、何千年にもわたり、人間の「ファースト」が力を奮う時に何を生んだのかを心に刻み、「不確実性」を生きざるをえなかった場所でもあると思います。三つの宗教の聖地が共にあるという意味と現実は重く、その証しでもあります。現代イスラエル建国時と同様、特定の人間の「ファースト」「呪文」が世界を覆う。
昔も今も世の「不確実性」は変わりなく、「未来」を信じ覚めて祈り共に歩むべく招かれています。

この年この時のクリスマス 牧師 加藤久幸

2017年の水海道教会のアドヴェント・クリスマスは、11月24日(日)のイルミネーションの点灯式に始まり、教会では一番早い婦人会クリスマス祝会が12月10日(日)に行われました。

この時期、「牧師は毎年似たような聖書箇所で同じような話をして、さぞ大変だろうな」と思われる方がおられるかもしれません。しかし「歌は世につれ、人につれ」であるように、クリスマスも毎年・来る年ごとに不思議な発見・出会いがあり、「新しさ」を感じています。教会の皆さまも、「この年この時のクリスマス」という一回性があるのではないでしょうか。

今回の巻頭言は、二葉こども園のクリスマス祝会を踏まえて、原稿を書きたいと思います。

二葉こども園のクリスマス祝会は、先週12月15日(金)に行われました。例年この時期はさすがに忙しく、今まで「交わり」に園の様子・原稿を書く余裕はかったように思います(大体は1月号に写真のみ掲載しています。今回の写真は、私が確認用に撮ったため見づらいかと思います。)
 
私は、クリスマスのメッセージは世相を映す「鏡」であると思います。私の場合を振り返ってみると、聖書に忠実に読んでいるつもりでも、その時々の世相が映し出されてくるように思います。
 
一例を挙げますと、イエスの誕生とその家族の歩みを(天変地異による)難民として受けとめたこともあれば、また、時の権力の暴虐のもとに生きる人間の歩みとして読むことも、ありました。

こどもと高齢者、女性と男性、民族と国籍など、各々の視点から、また他の様々な立場から、クリスマスを受けとめる、多様性もあるでしょう。
 
そのような中で、関連施設のある教会は、幼子と共に祝う幸いがあることを、覚えます。園の祝会は「お遊戯会」とならざるを得ませんので、小さい子どもたちは自分の出番が終わるとほっとします。家族のもとに帰り、おしゃべりをしたり、自由に動きます。そういう喧噪の中で「聖劇」が演じられます。クリスマスは「イエスさまのお誕生日」と子どもにもわかるメッセージが中心となりますが、聖劇では聖書の引用があり預言が語られます。
 
毎年の聖劇を見ながら、私はいつも新たな「福音」というか、クリスマスの真実を感じます。喧噪の中でイエスの誕生が告げられる、隣人が(神も)心に入らない世界で神の出来事が進んでいく…。「劇」でありながら、現実を映しているのか?
 
私は、今年の祝会で、こういうお話をしました。イエスも含め、私たちは生まれた時から死ぬまで不思議な力に導かれ守られています。それをキリスト教では「神は我々と共におられる」(マタイ1・23)と言うのでしょう。「我々」というのは、自分と同じように隣人も不思議な力に守られること…。自分だけでなく「ともに」「全ての民が」を信じるところに不思議な力が現れ、導いてくださる…。

 
クリスマスは、つくづく、人間の物語であり、神の出来事であると思います。聖劇は毎年同じ繰り返し(再演)ですが、その物語に触れる喜びを通して、園児も保護者も人間への「福音」に触れることがあるように思います。

先に、クリスマスは世相を映しているといいましたが、現実の世相は真実の「光」に照らされて初めて見ることができるのでしょう。クリスマスが成った事に感謝。神に栄光、地に平和を祈ります。

ACWCJに参加して     加藤輝勢子牧師

10月27日(金)にアジア教会婦人会議日本委員会一日研修会が日本キリスト教団富士見町教会で行われました。私にとってはこの研修は比較的参加しやすい研修です。それは仕事の予定が入らないことがあるからです。今年はその予定が入らなく、参加することに期待をしていました。

今年は「キリストに結ばれて」~あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです~を主題のもと、行われました。

開会礼拝はミャンマーによって作られたものをそれぞれの国で用いられました。そしていろいろな教派の讃美歌をみんなで讃美し、礼拝では救世軍の勝箆実香師がメッセ―ジをくださいました。

聖書研究は聖公会の布川悦子氏がコロサイの信徒への手紙2章9-15節までを解き明かしてくださいました。昼食後、ピアノと独唱のコンサートを聞きました。

その後日本バプテスト連盟の斎藤美津栄氏の「こども食堂の試み」の話を伺いました。斎藤さんの人柄や神様に心から従っている姿に感銘を受けました。と簡単に報告します。

この会を楽しみにしていたのですが、会に参加する直前にこの会の報告書をを『教会婦人』へ書いてほしいとの依頼を受け、楽しさと気楽さが一気に重苦しさになりました。

断れる理由がなく、お引き受けすることにしました。重苦しさもありましたが、しかし、いつもより真面目に聞いたことは確かです。報告書もあり、できるだけ忘れないうちに書き上げようと思っていたのですが、まだ書き上げていません。締切り間近です。なので、詳しくはそちらの報告書で… あしからず。

11月誕生日祝福

M.Kさんが祝福を受けました。CSでの奉仕を続けられています。立派なお髭を蓄え、矍鑠(かくしゃく)として、若い頃のスーツを今でもそのまま着られるとは…本当にご立派です!

アドヴェント、クリスマスへ   牧師 加藤久幸  

今年のアドヴェント(待降節)は、12月3日(日)に始まります。そして、水海道教会では、12月24日(日)に、クリスマス礼拝を捧げます。
 
日本はキリスト教国でなないため、12月25日(降誕日)が祝日ではありません。そのため、25日に礼拝や祝会を行うことが困難であり、第4アドヴェントの主日(日)に、クリスマス諸集会を行っています。

そういう事情もあり、今年は、24日の日にクリスマスの祝会をした後、その夜にクリスマス・イヴ(クリスマス前夜)の礼拝をすることになります。何年間に一度はやってくるとは言え、ある種の違和感とともに、24日が大変ハードな日になることは確実です。さて、どんなクリスマスを迎えるでしょうか。楽しみにしたいと思います。 
 
今回は、アドヴェントからクリスマスまでの流れ、そして、クリスマスとは何かということを、少し書いてみたいと思います。

1.水海道教会のアドヴェント
 水海道教会では、10月の最後の日曜日に、収穫感謝礼拝を捧げます。そして、その頃から、教会歴では、「降誕前」となります。礼拝では旧約聖書が読まれ、「創造からキリスト誕生までの神の契約の歴史を振り返りつつ(クリスマスを)準備する」期間となります。
 
私は、信仰者としては、イースター(復活日)やペンテコステ(聖霊降臨日)の方が好きだし、大切に思っています。
 
しかし、教会も、日本の社会も、クリスマスには力が入るようです。様々な要素があるかと思いますが、良い表現でいうと、アドヴェント・クリスマスが「明るく、楽しく、新しい何かを待つ」というイメージがあるからでしょうか。しかしながら、社会でも、ハロウィーンが終わればクリスマスという感じで、慌ただしく行事をこなし、「待つ」という歩みが消滅しつつあるように思います。

2.クリスマスとは?
 水海道教会には、関連施設として、二葉こども園があります。そのことから、こどもと共に祝うクリスマス、本当のクリスマスということが、話題に上ります。では、本当のクリスマスとは?
 
イエスの誕生の物語は、マリアの懐妊も、イエスの誕生も、現実の社会で翻弄され、時に「訝(いぶか)しい」「迷惑・邪魔」者と見られました。良き知らせを告げる羊飼いも「蔑(さげす)まれ」「除外」され、社会の外に置かれた人々です。

クリスマスの物語は、「誕生すら喜ばれない」「存在しても(世の中には)入れられない」、そういう社会の夜・闇の中で、そういう人々が先ず最初の人となり、「全ての民」に「良き知らせ」を信じて伝える物語です。

3.クリスマスを祝うとは?
 各々の歩みを振り返ると、反省や後悔があります。そういう事情もあり、「新年」を意味するクリスマスには人気があるかもしれません。時が来れば改まる(あたらしくなる)との、淡い思いがあるのかもしれません。しかし、現実の様々なことが平等でないように、時も等しく訪れるのではないように思います。
 
「全ての民」が救われる(生かされる)ことを信じ伝え生きる者に、他に代えることのできない「時」が与えられるのでしょう。
 
「恐れるな、わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」(ルカ2・10)この恵みの時、祝福の時を経験して、私自身が「信じる者」に変えられることが、クリスマスを祝うということなのでしょう。そして、信じ祝う者が、伝え歩む者に変えられていきます。
 
祈り備えつつ、その「時」を迎えたいものです。

収穫感謝礼拝 10月29日

10月29日(日)収穫感謝礼拝が捧げられました。さつま芋、里芋、南瓜、柿、白菜、りんご、葱等の恵みを持ちより、また、CSミニミニ畑で採れたミニトマトや牧師館前のみかん等を飾りました。さつま芋の大きさには驚きました。今年は日照不足で農家の方はご苦労をされていると聞いています。これからの天候が順調であるように祈ります。 礼拝後、豚汁をいただきました。

歴史を知り今を歩む 加藤久幸牧師

ファイル 888-1.jpgここ暫く、牧師の原稿は水害・復興という事柄に触れざるをえず、内容としては数年・数十年という範囲を扱うものでした。しかし、今年は宗教改革500年、「今」を500年というスパンで受けとめ直す、良い機会を与えられていると思います。

「信徒の友」が、9月・10月号に、各々「宗教改革」Ⅰ・Ⅱの特集を組んでいます。皆さんと「宗教改革」「今」を共有するために、特集の文章を引用したいと思います。

1.全信徒が祭司であること(10月号)
ルターは…1520年に書いた『キリスト者の自由』の中でこう述べています。「私たちは祭司である。その意味では、王であるより、はるかに優れているということである。祭司の務めを与えられていることで、私たちは神の前で他の誰かのために祈ることができる者とされる。神の前に立って祈ることは、祭司以外には許されていない。

…〔しかし〕私たちは霊的に、他の人に代わって祈ることができるようにされた。…キリスト者は祭司としては、神を動かす」。つまりルターは、洗礼によってキリストと一つにされた者なので、「キリスト者が祭司であるゆえに、キリスト者も祭司なのである」と言おうとしたのです。この私たちの祈りが神を動かす!(15~16頁、下線付:加藤)

全信徒祭司性という考え方は、近代社会の中で常識となった平等という考えとは直接につながるものではありません。…むしろ私たちひとりひとりに神から与えられた使命の違い、賜物の多様性を自覚させてくれます。

…プロテスタント教会はこの全信徒祭司性を説明するときには、常にそれに続いて「神からの召命」について力強く語ってきました。「召命」という言葉を聞くと、聖職者となることへの神の特別な召しのことだと考えるかもしれません。けれども宗教改革者たちの教えの特徴の一つは、すべての人に、そしてすべての人がなしている仕事、それどころか親、兄弟、友人などの関係もまた神からの召命だという考え方です。それらは皆あなたにしか担い得ないこととして神があなたにだけ与えた召命なのだと説明したのです。(16頁、下線付:加藤)

2.私たちはここに立つ(9月号)
 宗教改革の原理に信仰のみ、全信徒祭司性といったことが言われますが、最終的には「聖書のみ」に集約されていくような気がします。聖書のみから神の言葉を聞く。ルターが残したところの本意は「そこに固く立つ」という形で時を超えて残されました。日本の教会を建てたのもそれですが、そこから今わたしたちが立つところを見直すべきではないかと思います。(25頁)
 
「聖書のみ」が…多様性を誘発し、アメリカにおいて多様に広がっていきました。日本では諸教派乱立という状態が、何となく悪いことであるかのように受け止められることがあります。多様であることそのものが豊かさであり、その上で一つとなること、そのような文化になれていないのではないでしょうか。「聖書のみ」との言葉が画一的理解へと進むのではなく、神の言葉に真剣に聞くからこその多様な読み方の豊かさへと導かれる、そこに真のエキュメニズムがあるのではないか」(26頁、下線付:加藤)

3.感想
 今回の特集は歴史を振り返るよう促され、しかも「排除されていった人たち」に注目しています。
 ルターは、教会から破門され帝国から排除され、ザクセン選帝侯〔領邦国家〕の保護を受けました。
 他方、カルバンのジュネーブ市の宗教改革運動は、異なる者たちを処刑・断罪していきました。
 宗教改革の光と影ということが言われますが、
「信徒の友」9月号は次のように指摘しています。

「不寛容さが似ている分、宗教改革の歴史は参考になります。今起きていることはキリスト教の歴史を見れば必ず起きているのですから、それに彼らはどう対応したのかがわかっているのですから、この対応はしたくないという逆の参考になることもあります。」(27頁)

4.まとめとして
 私たちは、「聖書のみ」というと、みんなが一つ・一致すると考えます。しかし、今回の特集は、「聖書のみ」は多様性を誘発すると、指摘します。「神の言葉に真剣に聞くからこその多様な読み方の豊かさへと導かれる」のです。そして、今は細かに語れませんが、「聖書のみ」に集中していくと、聖書に、聖書の世界そのものに多様性が示されていると思います。そして、神が「多様であることそのものが豊かさであり、その上で一つとなること」を示されているのではないかと思わされます。
 
「ここに固く立つ」というのは、私たちが立っている制度・文化・国、各々の時代や状況ではないでしょう。しかしながら、私たちは、この世を、地上を旅する者として、与えられた場所・時間や各々の立場に立たざるを得ません。その時、私たちは、「すべての人がなしている仕事、それどころか親、兄弟、友人などの関係もまた神からの召命だ」と、信じ受けとめるのです。この世的には光と影が行き交いますが、信じる者は、神の「召し」に立たされ〔立つこと許され〕、そこが恵みであり祝福であると受けとめることができるのです。

〔人間は完全にはできませんが、〕召してくださった方が完全に応えてくださると信じ、立つことができるのです。昔も今も、そして、未来も、神が動いてくださると願い、私たちは神の前に立って祈ることが許されています。

神の前に立って祈ることにおいて、私たちは「一つにされた」者であり、「一つにされていく」者なのだと、思います。それ故、「この私たちの祈りが神を動かす!」と言い表すことができるのではないでしょうか。

【注】今号は「牧師室の窓」をお休みします。

賀川豊彦生誕130周年

先日、久しぶりに筑波山に行ってきました。天気の良い日でした。紅葉がきれいで、リフレッシュできました。つつじが丘からロープウエイで上り、そして下りてきました。女体山まで6分で着きました。一通り景色を眺めて、やはり6分で下りてきました。「時は金なり」です。

ただ、その日つつじが丘のおかめコースを登ろうとしている人たちが準備を整えて、頂上に向かっているのを見ると、うらやましくもなりました。その日はドライブを中心に考えていて、登山をする気で行かなかったので仕方はないのですが、登山にはもってこいの日よりでした。少し準備して今度は登山を目的に行きたいと思いました。

 
1888年7月10日に賀川豊彦はこの世に生を受けました。そして来年賀川生誕130周年になります。先日、賀川豊彦生誕130周年記念事業の準備委員会がありました。賀川の関係施設が集まり、130周年をどのように持つかと言う話をしました。「賀川の業績を顕彰するのと同時に、今日の課題及び未来について考える機会とする。」ということが主旨です。

家の光協会、生協総研、共栄火災コープみらい、鳴門市賀川豊彦記念館、全労済、日本生協連、労金協会、(社福)雲柱社、松沢資料館、松沢教会、(学法)雲柱社、本所賀川記念館等々のメンバーが集まりました。
 
賀川豊彦が手掛けたいろいろな事業が今日まで続いて、そしてそこで働いている者が賀川の志したものを後世に伝えよう、また、共に働いている仲間たちと共有しようとしていることを感じました。2023年、関東大震災100年を迎えるに当たり、本所賀川記念館もいろいろなことを考える時に来ています。生誕130周年がその準備の時ともなることができればと願っています。

 
18日、「あすなろの里」で親子デイキャンプをします。港区からバスで50人の小学校一年生の親子がBBQをしたり、散策をして遊ぶ予定でしたが、天気予報はこの日だけ雨。キャンプ場の屋根つきのところでBBQをして、午後は県立自然博物館に行く予定です。天気が良かったらあすなろの里を満喫できるのにと思うと少し残念です。

確信犯

9月に九州に行った時に、目からうろこ」、聖書的には「目から丸太」(マタイ7章5節)のような体験をしました。
 
ある講師から、私の心に突き刺すように、「確信犯は、自分が悪いことをしているとは考えてはいない」と、教えられました。講師は、牧師としての体験も語りながら、相模原障害者殺傷事件の被告も「確信犯」の例であると、挙げられました。

 
この事件を、私たちがどう受けとめるのか。私たちの社会の課題として、多方面から検討され、
その解明が続いています。その一つに、彼の発想や考えが世界的に拡大している排外主義とどう関わっているかということも、よく話題になります。彼の断片的な獄中ノートには「トランプ大統領は真実を話している」という一節もあるらしい。

見聞きした報道から、被告は「障害者を殺害したことを悪いことをした」とは考えておらず、今も「正しいことをした」と確信し、それを世界に発信しようとしていると、私は受けとめています。
 
事件のことを述べるのが、今回の本題ではありません。本題は、「確信犯は自分が間違っていない」と信じていることです。まわりが認めずとも反対しても「自分は正しい」と崇高な姿を身にまとう「確信」者も、「よくわからないのですが」と言いつつ世俗や日常の場面で右往左往しながら行動し「噂」を拡散していく「庶民」派も――根底には「自分は間違ってはいない」という同じ信念が潜んでいるのではないでしょうか。

「正義」を訴えて「戦争」に打って出ようとする権力者に、「あなた自らが戦場へ赴けばよい」との感情的な反対論調が出ることがあります。戦争の賛成と反対の論争も、「自分は正しい」という信念によるだけでは、事態は決して打開しないのでしょう。何人も「戦場」に送ってはならず、誰も「紛争」の被害者となってはならないのです。

 
「偽善者よ、自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」(マタイ7・5)。隣人との関わり、万人が共に生きる世界の歩みのために、「想像力」を養い、行動する力を身につけていきたいものです。


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