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壮年会リレーエッセイ 第7回       K.S

「道」

「この道はいつか来た道 
ああ そうだよ 
あかしやの花が咲いている」
北原白秋作詞、山田耕筰作曲「この道」の歌が聞こえると、母に連れられて母の実家に行った道が目に浮かぶ。

「てんのん(天王)様前」の声に促されてバスを降り、鬱蒼とした木立の天王様境内の裏の道を行く。道は緩やかな下り坂で平坦になる辺りから、道の右側は数多くはない人家があり、左側は畠が広がる。

しばらく行くと左側に分かれる道があって、道の角には庚申塚の石塔と榎の大木がある。榎の枝が行く道を塞ぐように覆いかぶさっている。其処を通り抜け緩い下り坂を足早に進んで行くと、やがて前方に篠竹が生えた土手の間から川が見えてくる。

青く光る砂河原に降り、水際に立ち、対岸の小屋に向って「お~い、頼む」と大声で呼ぶと「お~い」と言いながら船頭が現れて渡し舟を漕いでやって来る。川は底が見えるほどに澄み、舳先が作る水飛沫を見ながら川を渡る。対岸に着き、土手に上がると母の実家が見えた。

「道」の文字の意味を大辞典で調べると
ア)とおり道、往来する所(街道)
イ)行程、距離
ウ)ことわり、人の守るべき正しいすじ道、道徳
  教え(孝道)
エ)宇宙の根本原理
オ)方法、手段
カ)政令、制度
キ)仏教、儒教などの教え
ク)学術、技芸(武道、茶道) とある。

道の一字にこのように多くの意味を持たせた日本人の感性の豊かさを知る。
 
日本の伝統芸術である能楽では、所作と所作の合間の『間』を、言葉ではなく沈黙を重んじる。書、日本画は何も書かれていない余白を大切にする。これらの間・沈黙・余白は見る人聞く人に余韻を生む。話をする場合は一番大切なところは沈黙を重んじる。これらの背景には日本人独特の美意識がある。
 
道の文字が聖書に幾つ在るだろう。新共同訳聖書コンコルダンスによると、旧約、新約聖書に73語句ある。但し、福音書の並行記事はこの数に入れてない。イエスの言葉「わたしは道であり、真理であり、命である」は有名な語句である。

ここまで道という字をとりあげ種々述べてきたが、民族が生みだした固有の言語が、その民族固有の心理構造や文化を形成する重要な役割を担っている。

ヨーロッパの庭園は左右対称・幾何学模様でバルコニーから眺めると実に美しい。日本の庭園は背景、建物、そこに立つ人をも組み入れた全体のバランスを考えた造りである。

庭一つでもこのように違う。客をもてなす心を形に表したものが茶の湯である。茶道、剣道、柔道、書道いろいろな道がつくが究極はこれらを通して生き様につながるという。
 
イエスは地中海沿岸のパレスチナに育った人である。日本人とは民族も言語も育った風土も違う。そのイエスの教えを日常生活にあって、どう受け止めるかは難しく、私の生き方、考え方にとって重要なことである。

宗教は学問でも知識でもなく、人格に関わる命の問題である。単にイエスの言語を日本語に置き換えて済む話ではない。この課題の解決策は如何にと問われれば、現在私の出来ることは、主日礼拝出席、礼拝後のお茶を飲みながらの交わり、諸集会で福音を信じてイエスと共に日常生活を営む友と語り合うことである。イファイル 552-1.jpgエスを主なりと信じる、もののあわれを知る人で在りたい。

イスラエルを旅した時、イエスの時代の道が唯一つ残っていた。石段のある緩い坂道でイエスが歩いた道と言われている。私は道の傍らに立ち、石段に手を差し伸べ、イエスの歩く姿を目に浮かべたことを思い出す。

カヤパ邸(現在は鶏鳴教会が建っている)へ続く石段の道が発掘され、考古学的にイエスの時代のものとされた。イエスがこの道を通り、カヤパ邸へと曳かれて行ったことが十分考えられるという。(広報委員会)

壮年会リレーエッセイ 第6回

いざ 出でゆかん!     茨城YMCA主事 宮田 康男
ファイル 545-1.jpg私が教会の礼拝の中で最も好きなのは、派遣の言葉です。「さあ、我らいざこの世へと出でゆかん!」の心意気をもって、「この新しい週も地域社会に出て行こう。神様から背中を押して頂いて。」という気持ちに満ちるときは、本当に幸福な時です。
 
職業柄か、私の場合は特に、地域社会に出て行く、という思いが強いのかもしれません。そこには、地域社会の矛盾や苦しみや願いなどを敏感に感じ取り、そこに変革をもたらしたい、と願っている方々が大勢います。

そのような人々と出会い、共感し、手をつなぎ、その人々が住む現実の町の中で共に活動する。その具体的な活動も、地域社会の求めているものは何なのか、主のみ旨に沿うものなのか、を見極めながら進めて行くことになります。

茨城YMCAは、今年20周年を迎えますが、基本となる活動は「子育て支援」「青少年健全育成」「障がい児・障がい者の自立支援」などです。その中で様々なプログラムを実施するため、多岐にわたる計画が必要となり、多岐にわたる人間関係が結ばれます。そこで、さまざまな感動や共感が生まれ、喜びを共にするときの嬉しさは、格別のものがあります。また、意見の違いや価値観の差にも遭遇しますが、これも大切な出会いの側面といえます。ここが、「この世」ではないでしょうか。

茨城YMCAの誕生には、水海道教会の多くの先達や仲間も、発起人として加わってくださり、101人の発起人(チャーター・メンバー)により、1994年にスタートしました。

東京大学名誉教授・隅谷三喜雄先生による基調講演がノバ・ホールにおいて行なわれ、みんなの心が一つとなりました。講演は現実にこの社会に生きている人々といかに共に生きるのか、をYMCAに集う我らに問われるものでした。その隅谷先生も天に召されて10余年となります。時代が代わっても引き継がれていく、大切なものを噛み締めながら、日々の活動をして行きたいと思います。
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YMCAみどりのセンター

私はヤコブの手紙が好きです。「行いを欠く信仰は死んだもの」とヤコブが語っています。いま、生かされていることに感謝して、主が命じて下さり、この世へと出ていけるうちは、喜んで出て行きたいと思います。

壮年会リレーエッセイ 第5回

母のこと                S.H
2月21日、母が召天しました。満94歳でした。母はよく「ボケてまで長生きしたくないわ」と言っていましたし、父が亡くなってからは「早くお父さんの所に行きたい」と言っていましたので、長生きしてくれたと思っています。
 
父が亡くなったのは平成元年でしたから、父が亡くなってから23年、母の認知症が顕著になってきたのが私の記憶では77歳の頃ですから、ボケてから17年くらい経っていました。母の思いに反して、神様が母を長生きさせたのは何故だろうと思っていました。そのことについては、最後に触れたいと思います。
 
母は1920年(大正9年)東京の小石川に生まれました。家は薬屋を営んでおり、熱心なクリスチャンの家庭でした。父は結核を患っており、早くになくなりました。小学生の時に上田に預けられ、その後女子聖学院,東洋英和女学院を出て、幼稚園の教師になりました。

金沢や上田の幼稚園で勤めた後、水海道教会の二葉幼稚園に赴任して、父と結婚しました。結婚してからは幼稚園教師を止め、主婦として家事・育児に専念しました。子どもは,長男、長女、二男の3人が生まれました。長男は珈琲屋、長女は米国在住、二男は中学校の教員になっています。
 
母はよく、いつもニコニコしていて優しいとか、上品なお母さんとか言われていました。東京弁だったので、土地の方とは言葉遣いがちがっていたことは確かです。

ことばに対するしつけは結構厳しくて、「行ってきます」といったら「行って参ります」だよと教えられました。「犬にご飯をあげる」は正しくない。「ご飯をやる」だよとも言っていました。自分が小さい頃受けた教育がそうだったのだと思います。クリスチャンとしての生き方が身についていたのかもしれません。

クリスチャンと直接の関係があるかどうか分かりませんが、絶対に嘘をつけない性格で、おつりを1円でも多くもらうと必ず返す人でした。
 
母のことで思い出すのは、遊びに夢中になって帰りが遅くなったりすると、台所で夕飯の支度をしている母に「あんまり遅いから、交通事故にでも遭ったかと心配したわ」と言われたことでした。怒られるよりも、心配される方が申し訳ないという気持ちになったものです。

また、一緒に買い物に行ったときに、欲しい物(おもちゃなど)をねだると、「我が家は金持ちじゃないけど,買う気になれば買えない訳じゃない。でも、友だちの○○ちゃんの家は買えないかもしれない。あなただけ持っていて、○○ちゃんがなかったらうらやましい思いがするでしょう? だから、あなたが我慢することも大切なのよ。」と言われました。子ども心にも母親の言いたいことは分かったものです。
 
最後に、本人の思いに反して母が長生きをしたのは何故だろうと言うことに触れたいと思います。最初は、父が早くに亡くなったので、父の分を長生きさせているのかと思いました。また、自分がなかなか親孝行をしないので、親孝行をする時間を与えてくれているのかとも思いました。

母が亡くなってから思ったことは、母が元気なうちに亡くなると、淋しい気持ちが強くなります。だから、母がボケてだんだんと存在が薄くなった頃亡くなるように、神様がしてくれたのかなとも思っています。

母が亡くなったときに、「寂しい思いをされていることでしょう。」と言ってくださった方もいましたが、寂しい思いはしませんでした。母がボケてから時間が経っていることもありますが、母の言葉や行いは、私の記憶の中にはっきりと残っていますから、母は私の中で生きていると感じています。

母の生き方と私の生き方は、重なる部分がほとんどなので、自分が生きていることが母の生き方の再現なのだろうと思う部分もあります。
 
地上での人生を終えた後どこにいるのかと言えば、天国でもよいのだけれど、私にとっては私の中で生きていることが一番大事なことだと思っています。実は、イエスの復活も「私の心の中でイエスが生きて働きかけていること」なのだと思っているのです。

壮年会リレーエッセイ 第3回       I.M

バラバ―その魂の軌跡―

ファイル 516-1.jpg昨年の11月17日、バラバの映画鑑賞会を再度開催した。この映画はスウェーデンのノーベル賞作家であるペール・ラーゲルクヴィストの同名の小説が原作となっている。

原作と映画は、基本的な流れは同じだが、登場人物や話にいくつか違う点がある。特に肝心の最後の場面は大きく違う。今回は映画鑑賞会に関する記述なので、まず、映画の方にそって記載しておき、終りに、最後の場面のことに触れる。なお、この作品はローマ帝国がキリスト教を迫害していた時代が舞台となっている。

バラバは、言うまでもなく、イエスの身代わりに釈放された男である。この映画は釈放されたバラバの後半生を描いたものである。

釈放された直後から、バラバはイエスのことが気になり始めた。それは釈放されてから、ローマで十字架刑に処せられるまで、バラバにつきまとうのである。
釈放後、強盗を働くが、逮捕されてしまい、シシリーの硫黄鉱山に奴隷として送られる。このとき、キリスト教徒のサハックと出会うことになる。ファイル 516-2.jpg

奴隷は奴隷鑑札というものをペンダントのように首にぶらさげているが、サハックの奴隷鑑札の裏にはキリストの印が刻み込まれていた。サハックと話すうちに、バラバにも信仰心らしいものが目覚めてきたのか、サハックに頼んで、同じ印を自分の奴隷鑑札の裏に刻んでもらった。

2人はローマで剣闘士をすることになるが、そこのルールでは、勝者は敗者の命をとることになっていた。キリスト教徒であるサハックは、試合に勝利するが、それを拒む。それが、発端となって、サハックとバラバは取調を受ける。

サハックはキリスト教徒であることを貫き、死刑に処せられる。バラバは自らがキリスト教徒であることを否認し、奴隷鑑札の裏にキリストの印がついている理由も過去に信じようとしたことがあることにして、処刑を免れる。バラバの奴隷鑑札のキリストの印は何回も傷がつけられてしまう。

その後、バラバは勇者トルバドと戦うことになるが、老獪なバラバは巧みな戦術で勝利する。観衆はバラバにトルバドにとどめをさすことを求める。短剣をトルバドの首にあてたとき、奴隷鑑札の裏の傷がついたキリストの印がバラバの視界を横切る。彼は一瞬の躊躇を覚えるが、結局、とどめをさしてしまう。この勝利により、バラバはローマ皇帝によって奴隷から解放され、自由を与えられる。

ある日、ローマの街が大火事になる。これは、ローマ皇帝の陰謀で、キリスト教徒が放火をしたことにして、キリスト教徒を放火の罪で一網打尽にしようとするものであった。イエスの教えをほとんど知らないバラバは、神の意思で、この世の終りが来たものと思い、「古い世界が燃えて、神の王国が来る。主よ、今度こそご期待に応えます。」と言って、あちこちに放火してしまう。

逮捕されたバラバはキリスト教徒達が収監されていれる牢獄に投獄される。ローマの役人はバラバが証人となることをキリスト教徒達に告げる。
バラバの名を聞いたキリスト教徒達は、イエスの身代わりになった男が、自分達の冤罪の証人になったことを知り、彼からサーッと遠ざかる。

キリスト教徒達の中に使徒ペトロがいる。2人はイエスが十字架刑に処せられた直後、エルサレムで会ったことがある。ペトロはバラバに彼の誤解を指摘する。それにつられて、他のキリスト教徒達もバラバの誤解を責める。バラバは「ハッキリしねえ神様だな。色々な希望や天使や約束みんなどこへ消えた。最後に残るのは死体だけで、何の成果もない。犬死だ。」と吐き捨てるように言う。

ペトロはバラバを諭す。(以下は、ペトロとバラバの会話の中で、ペトロの発言のみを要約したもの。)「殉教者の死は無益だと言うのか。この20年の君の苦しみは無益だと言うのか。いや、人間はそれほどつまらない存在ではない。神から見れば、1人1人が1つの世界であり、慈しむべき存在だ。君が心の中で激しい戦いを繰り返してきたこと。それ自体が神への道であり、神を知る道程だ。その心の大波が神の王国を招く。陣痛に似た心の闘争から、やがて尊いものが生まれる。我々は先立ちだ。地球が神の王国になる姿は見られない。しかし、今こんな状況下でも、目的には到達している。王国は我々の心の中にある。恐れるものは何もない。今後、何年も殉教が続くだろう。大地はたやすく成熟しないが、人々は我々の時代を振り返り、希望を受け継いでくれる。」

ペトロとバラバの会話を聞いていたキリスト教徒達は1人1人近づいてきて、最後に2人を取り囲むようになる。
最後の場面は、バラバを含め、キリスト教徒達が十字架刑に処せられる場面である。バラバは死の直前、次のように、自らの信仰を告白する。
「主よ、すべてをゆだねます。」i

以上が映画の内容だが、小説の方がはるかにシリアスである。ペトロはバラバに火事はローマ帝国の陰謀で、結果的には、バラバは陰謀に協力したことを告げるのみで、映画のようにバラバの魂を救うようなことは一切しない。

牢獄の中でバラバは孤独に過ごす。最後に十字架刑に処せられるが、バラバの最後の言葉は
「おまえさんにまかせるよ、おれの魂を。」
というものであった。この「おまえさん」は誰を指すのか、「主」であるか、それともただ漠然と闇に対して叫んだのか。翻訳者の尾崎義の解説によれば、「主」でなければあまりに救いがないという人もいるが、ラーゲルクヴィストは問題を提示しているだけで、解答を与えていないという人もいるとのことである。

私としては、「主」であることを願う。私達の救い主イエスキリストはバラバのような人のために、この世に来たのである。

Fさんを偲ぶ(4)         M.T

Fふゆさんの存在 

昔を思い出すと、Fふゆさんは私の中ではとても素敵な「お姉さん」でした。最初にFさんが水海道にいらっしゃった時には「きれいなお姉さんだな」と思いました。次にお声を聞いて「こんな素敵な声でお話するのか」と驚きました。

早速母に「今の人、誰?」と尋ねると「今度幼稚園の先生になってくださる方」と教えられて、自分が幼稚園の園児になったように嬉しくなりました。
 
長野県の人と聞いたときは「遠いのに毎日どうするのかな」と思いました。もしかしたら牧師館の一室に泊まるのかなと期待してわくわくしましたが、Fさんの部屋は図書館の一室でした。

ファイル 515-1.jpg終戦直後でしばしば停電があり、真っ暗な中、夜お手洗いに行くのが大変だったと思います。現代では想像もできないほど汚く、竹の皮で編んだ草履が上履きの時代でした。それでもみんながそういう時代だったのです。
<写真はFさんが住んでいたころの橋本町の教会>
 
その頃の園児だった方のお話によると、当時の幼稚園は主任がK(Fさんの旧姓)先生、その他にT先生(M.Kさんの姉)、Y先生(Iさんの姉)、T先生がいらっしゃったとのことです。「先生方がイエス様のお話を熱心にしてくれたのを思い出す」と懐かしがっていました。その方は高等学校を卒業するまでは礼拝に出ていたとおっしゃっていました。

結婚されて二人揃って礼拝にお出でになっていました。祈祷会の後ではFさんお手製のケーキやお菓子をごちそうになり、菓子作りが私の趣味になりました。Fさんの生活の素晴らしさ、日々の行いを慕って洗礼を受けた方もいます。Fさんの存在は私たちを素晴らしい教会生活へと導いてくれるものでした。

Fさんを偲ぶ(2)             M.M

Fさんの笑顔 

遺影を見上げていると、今にも話しかけてくれそうな思いになり、熱いものを感じました。

日曜日には自転車で来られ、ロビーにいて笑顔で歩み寄り「おはようございます。変わりなかった」と言って迎えて下さいました。Fさんは長年に亘り婦人会長としてお働きになられました。その間ご苦労なこともあったことでしょうが、いつも変わりなく他者を気遣う温かくて優しい方でした。

「どんぐり荘」に入所されてから何度かお訪ねしました。入所当初は教会や婦人会の話をすると、ときどき思い出され「そんなこともあったわね」と笑いながら話した思い出もあります。

その後は会話も困難になられましたが「Fさんこんにちは」と声をかけると笑顔で応えて下さっていました。葬送式ではお世話になったお礼の言葉をかけてお別れしました。主の御もとで再びお会いする時、あの笑顔が迎えて下さるものと思っています。

Fさんを偲ぶ(1)             A.S       

Fさんから学んだこと

Fさんはケーキ作りが上手だった。私は森下のFさんのお宅に通ってケーキやブラマンジェ等の作り方を教わった。ブラマンジェは口当たりがよく本当においしいと思うが、今は作る気にもならないほど年を重ねてしまった。

そんなケーキ作りの折に、一人二人とFさんに身の上を相談される方が訪れる。Fさんは不意の客にも嫌がらずに手を止めてその方の話に耳を傾ける。私は台所で片づけものをしながら聞き耳を立ててしまう。

多くは家庭内の事とか友人関係の事など。Fさんはじっと相手の話を聞いていた。自分の言い分や考え方を決して押しつけなかった。最後に「あなたなら大丈夫よ。一寸努力してみれば、きっとうまくやっていけると思う。」と励ましている。来訪者は安心したように帰っていく。
 
最近、私のところへもそんな方が見える。つい自分の考えで「こうしたほうがいいんじゃないの」などと言ってしまいそうになるが、我慢して、Fさんを思い出して見習うようにして、話を聞く。結論は自分で出せた方がいいと、ゆっくり待つ様にしている。ケーキ作りよりいいことを学ばせて頂いたと感謝している。

Fさんのご主人と兄とは親友だったので、兄が出征中はよくお見舞いに来て下さった。私は「せっかく評判のいい先生なのにあまり飲みすぎないで…」などと年も弁えずお説教ばかりしてしまった。

「がみがみとうるさい妹だな」と言って、あまり聞き入れてはくれなかった。そして「うちのF子はそんな小言は全然言わない。あれは心が広い!大きい!偉い!」とつぶやくように言われた。私はまた、Fさんに教えられた。

一月末に息子さんご夫婦に、友人と二人でどんぐり荘に連れて行っていただいた。すやすや眠っているように見えたが耳は聞こえているはず。私たちが讃美歌を歌うと口を動かしてくれる。声にはならないが共に歌ってくれているように見えて嬉しくなり、私たちはたくさん、たくさん唄った。

部屋の高窓からはきれいな青空が見えた。こんな環境の中でこのようにすやすやと眠れたらどんなにいいだろうと羨ましくも思えた。

眠るように召天されたとのこと、本当に良かった。また天国でお会いできることを楽しみに…Fさん、ありがとうございました。
 

私の『大人像』          K.Y

去年5月19日に誕生日を迎え、私は二十歳になりました。この教会に来たのがついこの間のように、時は早く過ぎました。生れてから20年。ここにきてから16年。「たった」と言うべきか、「も」と言うべきか。もし人生を100年とするなら、去年の誕生日でその1/5が終わったわけです。まぁ、100年生きるのは難しいのでしょうが。 
いろいろあったような、なかったような。いや、でもやはりあったような感じで、ここまで比較的健康に成長した私は最初に皆さんに感謝を伝えたいと思います。育ててくださった両親や親族、見守ってくださった方々、そして、神様に、ありがとうございます。
 
さて、20歳という節目の年ですが、正直実感がわきません。成人だとか大人だとか言われても、私は私であり、何も変わりはしていないのです。友人に20歳を迎えて何が変わったか尋ねても、お酒が飲めるようになった、選挙権を得たとだけ。私はお酒を飲みませんが、今成人したと感じる証拠も同じです。他にもあるかもしれませんが私は知りません。何故なら、私はまだ未熟だから。
 
1月11日に成人式に行ってきました。久しぶりに会う友人と話したり笑ったりしました。昔と比べたら、当たり前ながら知恵も常識も身についていて大人だと思いました。しかし私の『大人像』は彼女たちのようではなく、もっとしっかりしている感じです。どっしりと構える大木のような、頼りになる感じ。

この中で自分は違う、と思う方もいらっしゃると思いますが、私からしたら、皆さんこんなです。つまり、周りから見て頼りになるのが私の目指す『大人』です。そうなるにはもっとたくさんの知識を蓄え、経験を積む必要があるのでしょう。今はそのために大学に通っています。学科が幼児教育なので主に保育に関してのサークル活動だったり、友人との関係だったり、勉強以外のことでもいろいろ学んでいます。私はその中でゆっくりおとなになろうと思います。
 
成人の年を迎えてもまだまだ子どものような私ですが、今後も温かく見守って、支えて下さると嬉しいです。今までありがとうございました。これからもよろしくお願いいたします。

黄牧師からご寄稿         S.Y

壮年会リレーエッセイ第3回

2013年12月1日から5日まで、マレーシア、サラワク州シブのメソジスト神学院講師である黄敬勝牧師を日本に招聘し、「アジアにおけるキリスト教の受容」に関わる研究プロジェクトにおいてご報告いただきました。黄牧師は歴史神学がご専門で、シンガポールの三一神学院で博士号を取得された人物です。ちょうど私が「交わり」に何か文章を書くようご依頼を受けたところでしたので、水海道教会のみなさまへのメッセージとマレーシア華人メソジスト教会紹介の文書を黄牧師からご寄稿いただくことにしました。なおサラワクはボルネオ島北部に位置するマレーシアの一州で、シブは華人(中国系)が人口の60から70%を占める地方都市です(地図参照)。

日本基督教団水海道教会の
主の内にある兄弟姉妹のみなさまへ

   黄敬勝(牧師)
         マレーシアメソジスト神学院講師

主の平安がみなさまとともにありますように
先にY先生の要請を受けて筑波大学で講演を行いましたが、大変貴重な機会でした。私は初めて日本を訪れたのですが、貴国の上品な風土と厚い人情は私に深い印象を与えました。もし今後機会がありましたなら、みなさまとともに主の恩典について語ることを希望しています。

また同時にY先生がマレーシア・サラワク州のキリスト教華人メソジスト教会について貴教会にご紹介くださることを希望し、下記の文章を寄稿いたします。

「宣教の歴史:
サラワクキリスト教華人メソジスト教会発展概況」


1900年、中国の福建省閩清県のキリスト教徒黄乃裳は民生の困難に鑑み、キリスト教の博愛精神をもって、郷里の人々のために新しい生活の道を切り開くことを決意しました。そして当時英国の保護国であったサラワク王国(ボルネオ島北部)の統治者Charles Brookeと開墾の条約を締結したのです。1901-1902年に前後して三度にわたり合計1,118人がシブに到着しましたが、その中の3分の2はメソジスト教会(美以教会)の会員でした(中国へのプロテスタントの進出は1842年の南京条約後に加速し、米国のメソジスト監督教会は福建省にロバート・マクレー牧師を派遣しました。
マクレー師は福建省で宣教を行った後に日本でも宣教活動を行った有名な人物です。メソジスト監督教会は福建省の福州を拠点に信徒を増やしていきますが、伝統社会からの反発も強く、1900年に華北では反キリスト教運動である義和団事件が発生すると、南方の福建にもその影響が及びました:Y注)。

1903年にメソジスト教会のシンガポール総会はアメリカ人のフーバー牧師(Rev. James M. Hoover)を派遣してシブ教会を担当させました。ここにおいて人々は創業の苦労のなか、身を粉にして働き、新たな故郷と教会を築きあげたのです。こうしてサラワク州のメソジスト教会の113年に亘る歴史が展開することになりました。歴史を振り返れば、メソジスト教会は宣教から始まり、社会に参与し、更に宣教する中でその歴史を紡いできました。

今日サラワクのメソジスト教会が持続的に発展していることには次の要因があります。

一、主の大いなる使命(すなわち福音を伝えること)を実行しています:歴世歴代の教会には主が委託された使命を執行する責任があります。エルサレムから最果ての地まで、欧州からアメリカまで、西方から東方まで、中国から東南アジアまで、シブから海外まで、福音を宣揚する方策が変わることはありません。シブはサラワク州におけるメソジスト教会の発祥地です。この場所において教会の事業が発展してきました。それは西洋人の宣教師による開拓の努力だけでなく、地元の(華人)伝道者と教会信徒が積極的に布教を行い、更らに重要なことには主の多いなる使命を教会が実行してきたからです。

二、安定した宣教の基礎があります:シブにおけるメソジスト教会はその創設の始めにはフーバー牧師の指導と確固とした方針、歴代宣教師の努力がありました。そしてキリスト教信仰の樹立は社会、経済、教育の発展をもたらし、シブをして宣教史上における成功した事例としたのです。

三、「教会財政の中央化」の方針があります:この方針は1946年、第二次世界大戦後に始まりました。いわゆる「教会財政の中央化」とはサラワクメソジスト教会に特有の行政方針です。これは教会本部が統一的に一切の教会の事務と財政を管理し、「共に用い共に享受する」目的を達成するためのものです。この方針によって、たとえ逆境にあっても本会の組織における上層と基層が心を同じく団結して、教会を発展させることが可能となったのです(「教会財政の中央化」とは中央の財政で牧師の給与やそのほか支出を負担し、各種事業を遂行することです:Y注)。

四、伝道者巡回制度の実行:伝道者(牧師や伝道師)の巡回制度とは、全体教会との契約のなかで個別教会への派遣の委任を受けるものです(つまり牧師のローテーション:Y注)。本会はこの制度を援用し今日に至っています。その効用としては以下が挙げられます。①伝道者と信徒の間の相互理解と連携を強化する。②伝道者に様々な教会や世間と接触させることにより経験を積ませ、その潜在能力と神の恩典を発揮させる。③伝道者をして現状に安閑としたり、或いは宣教に係る志を日常的な繰り返しの環境のなかで徐々に冷却させることを防ぐ。④牧区の需要を理解した上で適切な伝道者を派遣し、教会の業務を向上させ、事業を発展させる。

五、宣教の重視:1936年に宋尚節牧師が宣教し、実践した「奮興会」の影響は極めて大きいものでした(宋は福建省出身の伝道家。霊性と悔い改めを重視し、中国各地や東南アジア各地において大衆を対象とした熱狂的な布教集会を数多く開催しました:Y注)。これにより大衆に対する文化宣教事業を重視することが促進されました。各地の教会も牧区における教会関連団体に対する訪問や宣教隊による福音事業、教会内の各種活動、学校での事業を通じて、人々のなかに入り込み、福音を全地区に普及しました。本会も1939年にシブ地区に於いて民族を超えた宣教事業を開始しました。これはイバン族(サラワクの少数民族)への福音伝道です。1960年代には許忠厚牧師と林道順牧師をイバン族のなかに派遣し、宣教事業を進行しました。近年では、経済においてイバン教会を支援しています。2003年には二人の宣教師を北サラワクに派遣し、ペナン(Penan)族に布教しました。同時に海外に宣教師を派遣し、そこに駐在させています。これは当該地区における宣教のセンターとなることを期待してのことです。最初の海外宣教師の派遣は1989年に遡り、1998年には大規模に宣教師を派遣するようになりました。目下は30名を超える宣教師を7つの場所に派遣しており、それは東アジア、南アジア、インドシナ半島(カンボジア、ミャンマー、南アフリカ、西カリマンタン(インドネシア領ボルネオ島西部)などの地に及んでいます。

六、時代による変化への対応:日本のシブ占領期は一つの転換期でした(太平洋戦争勃発直後日本軍はシブを占領し、1945年8月まで統治しました:山本注)。教会には困難に対応する方法を求めさせるための試練となりました。これにより信徒には一層の素質が備わりました。

七、教会による教育事業:教会には学校がありますが、これは教会事業の特色です。本会は1901年に宣教を開始して以来、信徒を真理へと教え導くことと、知識を備えさせることとを、どちらも欠けることのできないものと見なしてきました。後の神学院の設立とシオンバイブル通信学校の活動は、信徒に成長の跳躍台を与えると同時に、教会に関わる多くの人材を育成し、教会が聖なる使命を果たすことを永続させる土台となりました。

八、社会事業について:社会事業は教育と共に教会が実施していく業務です。早期に開始した教会団体(fellowship)、例えば婦人会、孤児院、診療所、医院、夜学などから、後期になって開始した奨学金、葬儀扶助、障害者センター、麻薬中毒の解毒施設などまで、みな社会に対して一定の効果と影響を与えています。

九、出版事業:1948年7月に姚牧師が主編した特刊に始まり、今日の週刊まで『衛理新聞』(メソジストメッセージ)を発行しています。また1955年に福音書局を創設し、信徒の読書の気風を高めました。今日は教材の編纂から書籍の出版までの事業を堅持しており、信仰もこうした文化事業に依拠して成長しています。

結論
目下サラワク華人メソジスト教会の信徒総数は約10万人、10の教区があります:クチン、クチン東、クチン西教区,サリケイ教区,ビンツルー教区,シブ西、シブ南、シブ北教区,カピット教区,ビンツルー教区,ミリ教区,ともに127の教会や伝道所があり、146人の牧師、伝道師そして内外からの32人の宣教師を擁しています。

本会の現在の事業は、福音を広く伝え、信徒を教え導くことにより信徒の霊性を高める以外に、あらゆる力を尽くして迷える羊を探し求め、主の下に回帰させ、盲目の羊には目を開かせることです。本会の困難は、(社会的)事業や信徒による様々な活動が霊性の開発よりも多くなってしまい、また霊性の開発(つまり福音の伝道:山本注)がこれら(社会)事業のなかに混ざりこんでしまい、信徒も忙しさのため本来の使命を見失ってしまうことにあります。

本会は霊性の開発と(社会的)事業・活動とをうまく組み合わせ、能力のある教会を創り出し、神により選ばれた有能な信徒を育成することにより、今のこの時代にあって世の光となり、主の名をして栄えあらしめることを目指しています。

さらに我々には未だ達成していない理想や完成していない事業があります。我々の未来の路は神の手の中にあります。ただ謙虚に神のご計画に従い行くことにより、初めて神のために大きな事業を行うことが可能となるのです。

2014年菅平スキー会        N.O

お正月、恒例の菅平スキー会は今年で41回目になるそうです。私は最近の25年ほどしか知りませんが。今回は古井忍さんと2人でした。昔は貸し切りバスで大挙して参加し村田山荘さんの離れまで使っていました。

菅平は長野県の上田市に有り東部湯の丸インターを降りて18Kmほど北東方向に登っていきます。町の標高は1250mぐらい、私たちが滑る大松山山頂は1650m、高度があるので雪質はなかなか良いです。

1日目、車でスキー場に近づくとゲレンデの上のほうは雲の中。晴天率の高い菅平では珍しいです。宿でちょっと休んで2時ごろから一人でゲレンデへ。昨シーズンは菅平以降スキーができなかったので丸一年ぶりの滑り。なので様子を見ながら徐々にスピードを上げていく。まあまあのれている感じ。4時半にリフトが止まるので帰るが、村田山荘の玄関までスキーで滑り降りて来られます。

2日目、今日は晴天。撮影日和なので一眼レフを懐に押し込んで山頂リフトに乗る。山頂で東を見ると町を挟んで8km先に高さ2350mの四阿(あずま)山、南東20Km先に浅間山、北東50Km先に日本アルプスの山々、南120Km先に霞んでいるけれど富士山が見えるという抜群のロケーションです。今年も昼ごはん抜きで4時まで滑りました。

3日目、朝から雪。帽子、ゴーグル、ネックウォーマーで完全装備。寒くは無いが、いかんせん20m先が見えないのでスピードを落として周りに気をつけながら滑る。今日はお昼まで。帰ってみると車に雪が10cmほど積もっていました。帰り支度をして町へ出てお昼ご飯とお土産を購入。2時に菅平を出ました。

4日は渋滞のピークの予想でしたがさほど関越も混まず5時40分に水海道着。宿代は2泊で一人13000円、交通費は車1台で約10000円を頭割りします。人数多い方が交通費が安くなるので来年は皆さん、参加しませんか。


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