http://mitsukaidou.com
日本キリスト教団 水海道教会 サイトマップページへ プライバシーポリシーページへ
トップ 教会の紹介 牧師の挨拶 教会学校 キャンプ リ ン ク メール
教会からのお知らせ
最近のトピックス
教会学校ニュース
グループのニュース
牧師の部屋
副牧師の日誌
教会員のエッセイ
キャンプニュース
地区教区ニュース
今週のお花

記事一覧

婦人会リレーエッセイ 第5回 

 この頃思うこと        M.K

私は小学校5年生の時に、日記を書くという決断をしましたが、とうとう三日坊主で終わりました。中学生の時は、担任の先生の方針で、毎日日記を提出しました。

朝、持って登校し担任の先生の机の上に提出すると、先生はクラス全員のノートを職員室に持って行って、帰りまでには赤線を引いたり、感想を書いたりして返却して下さいました。他のクラスメートは何を書いたか知りませんが、私は先生の言葉尻を捉えて、反発したこともありました。今思うと赤面するばかりです。唯一日記を書いたのはその2年間です。
 
後に毎年日記帳を買って、1月1日に「一年の計は元旦にあり」と書き「今年こそは日記を書こう」と書くだけで、1月2日「特に書くことなし」で終わり、1月3日からは何も書いてありません。いったい何年分の日記帳をそのまま捨てたことでしょう。今思うとぞっとします。三日坊主どころではありません。

ならば家計簿をつけようと思っても一週間続いて記入したことはなく、自分の不甲斐なさにがっかり。そして泣きたい思いです。
 
そんな私が続けられることはないのかと考えました。「そうだ私にも続けられることがありました。」それは手芸をすることです。今のようにまだ目が悪くない若い時は、フランス刺繍をしたり、レース編みを好んで行いました。ピアノカバーやテーブル掛け、ベッドカバーなど今でもビニール袋に入れたまま箪笥にしまってあります。

自分にも続けられることがあったと少し安心し、少し肩の荷が下りた気がします。今はやりたくても目が疲れ、手芸もままなりませんが、自分の続けられることを探し、自分探しをする2015年にしたいと思います。

婦人会リレーエッセイ 第4回        K.S

リハビリの一日 

   朝9時30分ごろ、会田記念リハビリテーション病院の車が迎えに来てくれてリハビリの一日が始まる。
病院に着くと体温と血圧の測定があり、自分の好みのお茶を出してもらい、ゆっくり飲む。10時ごろ体操をゆっくりして、天気のよい日は二三人で外に出てゆっくり散歩をする。散歩から帰って少し休んでから、看護師さんがついて屋内の器具を使ってのリハビリをする。発声練習をする人の声も響いて賑やかである。私は足と手のリハビリをしている。一人で外出して教会へ行くのが目標である。いくらか上手になってきた。坂も手すりを使わずに上る。ゴムバンドを使ったり、お手玉を使ったりして、手や太ももの筋肉を鍛える。
脚の痛みも減ってきて、これなら春には一人で電車に乗れるのではないかと楽しみです。
             

石畳の電動車いす             K.O

6月のある日、突然に県の「男女共同参画社会づくり事業」の海外研修の話が舞い込んできた。9月28日~10月5日までの8日間、イギリス・ベルギーの2カ国を訪問して、男女共同参画に関する取り組みや福祉・教育などにつての研修を行うという趣旨だった。
 
イギリスとベルギーと聞き私は前回のNHK朝ドラの「花子」のように想像の翼を広げた。どこまでも続く緑の丘、遠くに見える森やお城、かわいらしい草花がいっぱいのイングリッシュガーデン、クルージングで水上から見る街並みも素敵…行ってみよう!
 
研修内容もよく理解しないままに参加が決定する。9月末の出発までに1泊2日の研修が3回。仕事をやめて10年以上も自分の時間で生活してきた私が、決められたプログラムで時間通りにきびきびと行動するというのはちょっと大変なことだった。
 
「観光ではありません」と事務局がいうように視察先は、ロンドンの移民の多い地区の保育園と小学校、グリニッチの行政施設、土浦日大と交流のあるチューダホールスクール(11~18歳までの女子校)、ベルギー日本大使館、メゾン・ドゥ・カルティエ(ボランティア施設)、EU欧州委員会、ボガーツインターナショナルスクールと盛りだくさんだった。
 
その中でベルギーで感じたことを少し書くことにする。ベルギーといえば思い浮かぶのはチョコレートと中世の街並みくらいのものだったが、行ってみたら…なんと素敵なのだろう。
 
ブルージュの歴史地区を歩く。ブルージュは運河を通じて北海とつながり、13~14世紀にかけて毛織物の交易で栄えたが、15世紀後半、北海から流れてくる土砂で運河が埋まり港の機能を失ってしまい衰退。繁栄の頂点にあった中世の街並みを残したままになる。という訳でブルージュの歴史地区は町全体が世界遺産に指定されていて、いつも観光客で溢れている。
 
このブルージュが「認知症にやさしいまち」として、NHKの番組で取り上げられたことをご存知の方も多いのでは…。しかし街はバリアフリーではない。世界遺産の街並み、石畳の道で、認知症の人、障がいを持った人に優しいとはどういうことなのか。
 
私たちが街を歩いている時、電動車いすで生き生きと走り回っている二人連れに出会った。介助者はいない。彼らは石畳のでこぼこ道でもすごいスピードで走る。段差が大きい所で躓いたり立ち往生したらどうしようという不安はないのだろうか。と思っていたら、目の前で車いすが止まった。段差に対応できない様子。すると私たちの方を見ながら笑いかけて来た。即、走り寄って皆で車いすを持ち上げると「ありがとう」という目で笑い、また走り去った。そうか、何かあれば誰かが手を貸してくれるというのは当たり前なのだから、何も心配はないということなのだ。
 
ベルギーでは誰もが「知らんぷりをしない」ということを後で聞いた。
 
高齢化が進み、町ぐるみの認知症対策を講じなければ経済的にも社会的にも成り立たないという危機感から「認知症にやさしいブルージュ」が始まったそうだ。認知症を患う人々は介護施設ではなく、自宅で家族と共に暮らすのが望ましい。そのためには、介護者へこそ支援が必須で町ぐるみで対応していかなければ崩壊してしまうと、ひとつのNPO法人が立ち上がった。民間の組織ではあるが市が資金の70%を拠出している。市や警察などの行政、商店やサービス業、子どもたちなどあらゆる人々を巻き込み、何度もセミナーを開き理解し合う。認知症患者とその家族が気軽に歩ける範囲がどんどん広がっているという。徘徊患者の緊急捜索も皆で協力して成果をあげているそうだ。

社会の根底にあるのは「一人で持ち切れない重荷は皆で分けあって持てば生きていけるという市民の連帯意識」だという。「やさしいまち」は認知症を患っている人だけではなく、障がいをもった人や病気の人、子どもを育てている女性や家族、さらには人種、民族などありとあらゆる社会的に弱い立場の人に対して「やさしいまち」なのだろうと思った。続きはまた…

哀悼

Mさんの余りにも急なご逝去に心を痛め、ショックを受けています。人間にとってつらいことはたくさんありますが、肉親の死ほどつらく悲しいことはないと思います。今、自分自身も心の整理がつかなくて、ご遺族に対する慰めの言葉が見つかりません。
 
Mさんは、私が最も信頼し、本音で語り合える友人の一人でした。彼は温厚で誠実な人柄でした。彼の言動に派手さはありません。話術もそんなに上手な方ではありませんでした。御世辞を使うわけでもなく、泣きごとや文句をいわず、ただ黙々と教会の仕事に奉仕されていました。私は、そんな飾り気のない彼の姿が好きでした。
 
長い間、教会学校の教師として、教会の役員として、また幼稚園の理事として奉仕し、教会と幼稚園を支えてくれました。
 
現在の牧師である加藤先生がいらっしゃる前のことですが、彼も私も一緒に悩み、お互いに励まし合ったことがあります。また、これはほんの一例に過ぎませんが、夏の暑い盛りに、自分の家から刈払機を持って来て牧師館前の草刈りを何度もしてくれたりしていました。そんな光景が、今目の前に浮かんでまいります。
 
Mさんと私は人間としての生き方を求めて一緒に歩んできました。もっともっと話し合いをっしたかったし、好きなお酒も酌み交わしたかったと思います。いろいろお世話になりましたが、とうとうご恩返しができませんでした。
 
Mさんが天国に召され、心の中にぽっかり穴が空いてしまったような感じでおります。

「ワレハ ヨミガエリナリ イノチナリ ワレヲシンズルモノハ シストモイキン。オオヨソ イキテワレヲシンズルモノハ トコシエニ シナザルベシ。」

私たちは、いつまでも溝手さんのことを心の中に生かし続けていきたいと思っています。
極めて断片的ですが、親友溝手さんへの思い出などを語らせていただきました。

婦人会リレーエッセイ 第3回 Y.I

私の少女時代

終戦後間もない昭和23(1948)年、13歳だった私は「今夜も徹夜か…」とひとりつぶやいた。父が酒を飲んで大声を出している。しげ姉さんが心配して様子を見に来てくれた。「おじさん、何を怒鳴っているんだ?」「Yちゃんがエビを売ったり、箒の注文を取ったりと忙しく働いているんだから、文句はあんめーな!」と言ってくれた。ホッとした。

父があんまり大声を出すものだから弟が泣き出す。私はまたおんぶしなければならない。弟はまだ五カ月の赤ん坊だ。泣き続ける弟をおぶった。

その上夜なべ仕事だ。手袋にステッチをして半ダースずつくくる。白い無地の手袋にバレエダンサーの赤いチュチュのスカートに白い縁取りは私が考えたデザインだ。左右の手袋にバランスよくステッチをしていく。期日までに間に合わせるには「やっぱり徹夜だなぁ…」と思う。
 
私には遊ぶ暇がない。その頃、兄が勤めていた本屋に行ったときにもらったゴムまりは、友達のタカコちゃんが持って行ってしまったままだ。山口家のおばちゃんに会った時その事を言ったらタカコちゃんが「うん、後で持っていくから」と言ってくれた。

その後二人でお不動さんの境内で本を読んだ。「十五少年漂流記」だ。おもしろい。でも「今日はここまで」と切のよいところで止める。タカコちゃんは家に帰って行った。

私は大町の「内山」へ箒を届けに行かなければならない。弟をおぶって箒を届けて、古い箒をもらって帰る。箒7本分の代金をもらう。うれしい。これで何を買おうかとウキウキした気分になって来る。

でも現実に気付くと少し悲しくなってくる。箒を売ったお金は私のお小遣いにはならない。買うのは自分の物ではなく家の必要品だ。西町の「松本屋」でお茶を買って、箒の注文も取る。

今夜と明日の米はあるけれど、その先はない。「大木」のおじさんのところへ行きたい、弟や妹に白いご飯をお腹いっぱい食べさせたいと思う。父は相変わらず酒を飲み酔っ払っている。一間だけの小屋のような家。私はもっと本が読みたい!

夕食を作りみんなで食べた。弟たちを寝かせつけ一人で家の外へ出た。近くの墓場へ来ると、家々からの物音も遠のき誰もいない。その中で私は思いっきり本を読んだ。

婦人会リレーエッセイ 第2回     R.O

どんな言葉で…

「きれいな発音ね」、「言葉づかいがていねいね」、「なまりがないよね」、と香川や福井で言われ、今の職場でも言われている。
 
私は秋田生まれの秋田育ち。父が国鉄(現JR)職員だったので、3~5年間隔で転勤をしていた。高校2年に進級する時、父の県外転勤の辞令が下った。行きたくなかったが、45年前、単身赴任は論外、親には女の子を一人では置いとけないと言われた。選んで入学した学校を退学し(義務教育でないため)、編入試験を受けて新しい高校の2年生になった。
 
初日、転校生としての挨拶と簡単な自己紹介をしたと記憶している。朝のクラスルームが終わった後、廊下で一人のクラスメイトに呼び止められ、こう言われた。「あなたが言ったこと全然分からなかった」。!!!私の日本語が通じない!!!今までその言葉で生きてきたのに、今は理解してもらえない。16歳の少女には大きな出来事だった。(原因は訛りだったようだ。)

言葉について考えさせられた。「言葉は通じないと意味がない」と思い、「どこでも通じる言葉を話せるようになる」と決意した。その場所で生活するのだから。そこで、表現したことを理解してもらわないとコミュニケーションが取れないから。

私はテレビのNНKのアナウンサーを先生に選んだ。それ以来共通語(標準語)と秋田弁のバイリンガルになった。どこへ行っても、私の言葉は理解してもらえるようになった。英会話を勉強し、外国の人たちともコミュニケーションを取れるようになった。こども達は家庭では共通語で、地域、教会、学校や友達の中では大阪弁で育った。親としては、状況や場所、人間関係に応じて言葉を使い分けることができるようにと願った。

神の言(ことば)に出会い信仰を与えられ、礼拝での見える言(説教)と見えない言(聖餐)に育てられ、交わりの中での言葉に支えられている。キリスト教主事として、専門学校の非常勤講師として、福祉現場の介護者として言葉は欠かせないものだった。ていねいできれいな言葉づかいを心がけた。もちろん言葉だけではないことは分かっている。・・・いた。

今の仕事は、知的障がい者・肢体不自由者(18歳以上)の支援員である。新しい出会いが待っていた。言葉を発しない人たちや言葉を理解しない、できない人たちとの出会いだ。先輩支援員に「いけないことはいけないと教えてくださいね」と言われた。どうする???

1年半が過ぎて、言葉や表情、スキンシップを通して少しずつコミュニケーションが取れるようになってきた。それでも、まだまだ試行錯誤を繰り返している。
還暦を過ぎて、言葉がすぐ出てこないこともある私に、「どんな・・・ことば・・・」が与えられつつあるのか。気づけるかな~。

婦人会リレーエッセイ 第1回

ミーハーな私         H.M 

 私は、案外というべきか、やはりというべきかミーハーである。はやりの物やテレビドラマや、たまたま目にした物に、深い考えも無しに直ぐに飛びつく傾向がある。その時は「これだ!」と思うのだが…後々そのために四苦八苦したり、思わぬ結果になったり、最初の熱い思いが嘘のように消えていったりする。
 
果物は大好きだが、グレープフルーツが出回り始めたころ、果物は「これだ!」と思って毎日のように食べた。しかしある時、少し感じる苦さがどうにも嫌になって食べなくなった。
 
朝食のパンはバターかマーガリンをつけて食べていた。20年くらい前ホテルの朝食のスタイルがフランスパンにオリーブオイルだったことがあった。パンには「これだ!」と思い、しばらく続けていたが、ある時「どうでもいいか」と思い、今は手近にあるもの、バターでもマーガリンでもオリーブオイルでも良くなっている。
 
次には先日の誕生祝福の時に「好きな食べ物は?」という牧師の質問に答えたメロンパンである。朝起きると真っ先に頭に浮かぶのはメロンパンというほど入れ込み、まとめ買いをし、冷凍して毎朝欠かさなかったが、ある朝、何の理由も無しに「メロンパンは、もういい」と思った。それ以来ほとんど食べていない。お店でメロンパンを見かけると懐かしい感じがするが、買う気は起らない。あれほど好きだったのにと不思議だ。
 
食べ物以外でもある。病院で働いていた時、消耗品の管理をするようにと言われたことがあった。多種にわたる物品‐注射器、ガーゼ、手術用の糸、眼内レンズ、血管を拡張するためのステント等など。その頃、物品管理のシステムは無く、各部署で思い思いに業者に発注していた。在庫過剰や使用期限の問題があった。適正な在庫、タイムリーな発注、費用の圧縮しかも緊急もありうる患者さんの必要に応える。どうしたいいか?

「これだ!」その時思ったのはコンピューターを使うということだった。すらすらと問題解決をしていくイメージが浮かび、すぐにソニーのノートを買った。当時は高く三十万円くらいした。まだウィンドウズはあまり普及していなくMS-DOSだった。直ぐに使えると思ったのだが…電源をオン・オフすることしか出来なかった。分厚い説明書を読んでも理解できなかった。「買うんじゃなかった」と自分の軽率さに嫌気がさして、電源オン・オフも止めてしばらく放って置いたが「三十万円もったいない!」と、息子に助けを求めた。

どう説明してよいかも分らない私が、なんとか窮状を訴えたのに彼の返答は…「お母さんのやろうとしていることは、日本語を知らない外国人が夏目漱石を読もうとしているようなものだよ。そもそも頭の中に辞書が無いのだから、無理!」。図星を差された。「お前を生んで育てたのは誰!」と言ってやりたい言葉をぐっと飲み込んで電話を切った。言い過ぎたと思ったのか息子から折り返し電話があった。

そんなやり取りがあってから、毎日のように深夜までPCと格闘。職場でもPCに詳しいドクターに助けていただいた。他人様は優しかった。説明を受けて「分った」と思い自席に戻ると分らなくなり、再度同じ質問をしに行くと「困った婆さんだなぁ」と言いながらも丁寧に教えてくれた。

思いつきで買ったPCで悪戦苦闘をすることになったが、これは「もういい」と思うこともなく、必要不可欠なツールとなり今も続いている。
 
まだある。ミシンである。数年前のNHKの朝ドラでヒロインが軽快にミシンを踏んでいるのを見て「ミシンがあったらいいなぁ」と買った。
洋裁の経験と言えば、高校での家庭科だけでほぼ皆無。ミシンがあれば物が縫えるというものでは
無いと思い知ったが、PCほどは悪戦苦闘することも無く、布のバッグなどを作ってバザーに出品したりした。しかし「あの時買っていただいたバッグは、今頃底が抜けたり、持ち手が取れたりしていないか?」と考えると冷や汗が出る。 
 
洗礼を受ける前に質問をした。「キリスト者とはどんな人?」当時のN牧師の答えは「最右翼的には、日本基督教団の信仰告白をして洗礼を受けた者。途中に様々な程度があり、イエスという人物への関心を棄てられないでもいいと思う」であった。それなら、私でも許されるかもしれないと思い教会へ連なることになった。メロンパンのように「もういい」と思うこともない。PCと格闘して何かを身につけたという様なことでもなく、自分の言動を顧みると冷や汗ものの布バッグのようであり、グレープフルーツの苦みも味わっているが、この出会いを無いことには出来ない。

壮年会リレーエッセイ 第10回      I.K

私と健康

つい3年半ぐらいまでは、健康について考えた事も考えようとした事もありませんでした。毎日毎日を仕事以外の私生活では、食べたい時は食べ、飲みたい時は飲み、しかも昼間だろうが夜中だろうが何も気にせずいわゆる暴飲暴食をくりかえしていました。

ましてや将来の老後や生活を考えるなんてとんでもない、自分はまだまだ若い関係ないと思っていました。

平成23年3月11日東日本大震災が起こり、世界がこのニュースにくぎづけになっていた頃、私の体にも大きな変化が起こりつつありました。
 
最初は健康診断で不整脈があると指摘され、自宅近くの病院で見てもらった結果心房細動という病名で一生なおらないので、薬を飲んで悪化するのを防ぐしかないと言われました。

それから2週間たった頃から両足の太ももが大根のようにむくんできて歩くのもままならず、5~10m歩くのもやっとで杖をつかなくては歩けなくなりました。

4ヶ月すぎた8月の中頃、急に左目の奥がハンマーでたたかれた様、いやそれ以上何かが刺さった様な痛みが続き鎮痛剤を飲んでもまったく直りません。そこで夜になって通院していた病院に行ったのですが見てもらえず、そのまま家で寝ました。

朝起きた所左目が見えません。あわてて病院に行ったら目の血管が詰まって失明に近い状態だといわれました。それから高気圧のカプセルに入るなどいろいろ治療をしましたが手遅れでした。

もう人生おしまいだと思い仕事も休み、何もやる気がなくなりくじけそうになりました。

10月に入り秋らしくなってきた頃、茨城の実家に引っ越してきました。病院も筑波大学付属病院に移り検査を受けた結果、バセド病と言われ治療を始めました。

この治療をしていくうちにバセド病の数値もよくなり、足のむくみも無くなり絶対になおらないといわれた心房細動もよくなってきました。
やっと安心して仕事もはじめていました。

翌年平成24年6月にまた衝撃が走りました。バセド病の合併症で1型糖尿病を発祥しました。まったくインスリンが出ないらしく食事の前にインシュリン注射をしなくてはなりません。

それから2年2ヶ月1日6回血糖値を計り、毎食毎にインシュリン注射、寝る前にインシュリン注射1回も休まず実行しています。今は血糖値のコントロールもうまくいって安定しています。

このようにいろいろな病と闘ってきて、いかに健康が大事か痛感しています。

今では毎日運動をかかさず、食事もカロリーに注意をはらい一日の生活が規則正しくなるよう気をつかっています。
これからの人生健康と向き合って生きて生きたいと思います。

壮年会リレーエッセイ 第9回 K.F

思いつくままに…お節介のすすめ

今年2月に、母ふゆを送りました。その節には、教会の皆さまはじめ、沢山の方々にも温かく送っていただき、ありがとうございました。またその後も、この「交わり」などで、ふゆの思い出を語っていただき、感謝しております。

一緒にいる間は、何も考えず暮らしていたのが、会えなくなってみると、生前の細かい仕草や言葉などがふっと思い出されるというのは、人間の常なのかもしれません。私にとっての母の思い出の一つに、人の痛みに対する、異常なほどの感情移入があります。

目の前で隣家の子供が転ぶと、怪我をしたかどうかに関係なく、身を震わせて「おお、痛い!」と叫び、ちょっとでも血が出ていようものなら、「わぁ、大変!」と言って、傷の大きさに関係なく、アカチンとリバガーゼをもって飛んで行く。来られた我々や近所の子供たちは、恥ずかしさ、きまり悪さで小さくなっていたほどでした。

少し大げさだったんじゃないかと思えるのですが、よく解釈すれば、それだけ痛みということに敏感だったのでしょう。もちろん、他人に対してだけでなく、自分の痛みにも敏感というか、弱い人でしたが。

でもその敏感さ、弱さが、母にとっては、他人のことを気にする、思いやるという感覚につながっていっていたような気がします。自分が痛みに弱いから、嫌だから人の痛みを一緒になって感じ、分かち合おうとする、そんな心根があっての行動だったのかなと思います。
それは、消極的な形からの他者との関わりの姿勢だったかもしれません。

でも誰かが転んだとき、「おぉ、痛かったね」と言って助け起こしてあげることが、最近なくなってしまっているような気がしませんか? 起こされた方は、気恥ずかしかったり、うっとうしそうな顔をするかもしれません。でも、そんなかたちででも、隣の人に声をかけ、一緒に痛みを分かち合うことを、最近しなくなってきているような気がします。

隣人との関わりが薄くなってきていると、近頃よく言われますが。関係が薄くなってきていると言うより、関わりを持とうとしない風潮が広がってきている、余計なお世話はするなという言い方が広がってきているということでしょう。
 
そんな風潮が、現代社会の問題の一つだとしたら、社会問題を解決するなどと声高に叫ぶことはできなくても、自転車で転んだ子供に、ベンチで気持ち悪そうにぐったりしている人に、近寄って行って一声かけることはできるかな。たとえ、相手の人に余計なお節介だなという目で見られても、それを続けることが気配りに繋がっていくのかもしれないなと、ふと思うこの頃です。
ファイル 570-1.jpg
コーヒーをいただきました
 かうひいや珈和から「深煎り自家焙煎」の粗挽きをいただきました。本紙5月号で「コーヒーアワー」を知った古井さんご夫妻から「普段、何もできないからうちのコーヒーを使って下さい」とのお申し出をいただき、有り難くお受けすることにいたしました。
 「コーヒーアワー」は毎月最後の日曜日に行っています。今月からは珈和の味わい深いコーヒーをお楽しみください。




.

壮年会リレーエッセイ 第8回 S.W

人間の力を超えたもの

ファイル 562-1.jpg6月23日、それは、沖縄の「慰霊の日」であると同時に、私にとっては、「奇跡の日」である。
 
今から69年前、沖縄では住民を巻き込んだ地上戦が展開されていた。「慰霊の日」は、太平洋戦争末期のこの沖縄戦が終結した日とされ、本土防衛の捨石となった沖縄の悲劇を後世に伝え、平和を誓う大切な日である。
 
一方、今から16年前(1998年:平成10年)の6月23日(火)の夜、水海道教会牧師館の集会室では理事会・評議員会が開かれていた。そこで議案の説明などをしていた私は、突然病魔に襲われた。「奇跡の日」は、動脈瘤破裂という恐ろしい病に見舞われた私が、さまざまな偶然が重なって、仮死状態から生き返り、九死に一生を得た忘れ得ぬ日である。
 
「慰霊の日」はさておき、「奇跡の日」の物語は、次のようである。
 
会議中に気分が悪くなった私は、席を立って教会堂のトイレへ行った。ウンチが出そうな気がしたのだが、結局出なかった。トイレを出ながら、ふと鏡を覗いてみた。そこには、血の気が失せて異様に青白い自分の顔が映っていた。そして、目だけがギョロギョロしていた。一瞬、死神が付いた顔とは、こういう顔のことかと私は思った。
 
会議の席に戻って質問に答えたりしていたものの、私の様子がどこか変らしく、議長である上地武先生やみんなが心配してくれていた。その時、「ダメだ、その顔色はただごとじゃないぞ。早く病院へ行った方がいい。」と鈴木邦彦先生がおっしゃった。

そして、きぬ医師会病院へ電話をしてOKを取り付けてくださった。電話の相手は、当直医の対馬健祐先生だった。先生は、私の内科の主治医で、きぬ医師会病院の副院長でもある。急いで病院へ行くよう説得された私は、上地美智子さん(上地先生の奥さん)の運転で、きぬ医師会病院へと向かった。病院へ着くと、駐車場からは歩いて院内へ入った。
 
態勢を整えて待っていてくれた当直の対馬先生が私の姿を見るなり駆け寄って来られ、「なんだ、歩いてきたのか?ダメだ、ダメだ。」とおっしゃって、ストレッチャーに乗せられた。ファイル 562-2.jpg

まわりには、当直医や外科医や看護婦さん達(当時は「看護師」とは言わず「看護婦」という言葉を使っていた)が血圧や熱を計ったり触診をしたり私に質問をしたりしていた。血圧がどんどん下がっていることから出血をしているとみて、その原因と部位を特定するため、いろいろな検査が始まった。

どのような検査がどのようにして行われたのか、自分にはよくわからなかった。ただ、レントゲン室で検査を受けていたことだけは、今でもはっきりと覚えている。そして、後でわかったことだが、それは血管造影だった。「動脈瘤破裂」の疑いをもった放射線科の清水先生が血管造影の検査をしてくれたということだった。

この検査が決め手となり、部位と原因が確定した。そして、これから手術をするということになった。

それが検査の途中だったのか、それとも手術の準備がなされている時だったのか、どうしても思い出せないのだが、お医者さんや看護婦さんから「Wさん だいじょうぶ?」と聞かれ、「はい だいじょうぶです」と答えると、「あら まだ意識がある」という声が聞こえてきた。また、「Wさん がんばってね!」と何度か励まされ、そのたびごとに、「はい がんばります」と答えると、「すごい、まあだ意識がある」という声が聞こえてきた。不思議なことに、そのようなことは、ちゃんと記憶にある。
 
手術室へ向かう頃、急に寒気がしてブルブル震えだしたので、看護婦さんが電気毛布を掛けてくれた。時間が相当経過し、気力も体力も最早限界だったのだろう。手術室に入り、鼻のところにガーゼを当てられると、それから先のことは、もう何もわからなくなった。
 
どのようにして手術が行われ、どのくらいの時間を要したのか、こちらは知る由もない。目を覚ましたら、2階の集中治療室のベッドの上にいて、口・鼻・胸・手・腹・その他から管やチューブが出ていて、体中配線だらけだった。

その後約1か月経った7月28日(火)に2回目の手術が行われ、8月18日(火)に退院した。入院生活が2か月に及び、病院の方々にいろいろとお世話になったことを今でも感謝している。

動脈瘤破裂と言えば死に直結する病気で、多くの人は、救急車で搬送中に命を落としている。それが、なぜ助かったのか。それは、次のようなことが偶然重なったからだ。ファイル 562-3.jpg

①会議の開かれた日が6月23日(火)の夜で場所が牧師館、しかもそこにドクター(鈴木邦彦先生)がいたこと。・・・鈴木先生は、水海道教会学園の理事で、しかも当時きぬ医師会の会長であった。

②病院へは、救急車ではなくマイカー(上地先生の車)で行ったこと。・・・上地美智子さんが車を運転してくれたうえ、ずっと病院にいて入院手続きやら家族への連絡などをしてくれていた。

③外科医が3人(森島先生・文先生・飯塚先生)もいたこと。・・・夜間に外科医が3人も揃っているということは、365日のうち1日か2日あるかないかだという。

④内科の主治医である対馬先生が、当直医であったこと。

⑤麻酔の先生がいたこと。

⑥放射線科の先生とレントゲン技師がいたこと。

⑦手術室のスタッフ(担当の看護婦と婦長)がいたこと。

⑧輸血用の血液(O型)が4本揃っていたこと。
 
これらのうち一つでも欠けていたら、あるいは違っていたら、私は62歳でこの世を去っていたに違いない。現に、当日評議員として同席していた中村八重子先生は、「Wさんが部屋を出る時死人の臭いがした」と、後日私におっしゃったし、主治医の対馬先生は、「俺はびっくりしたよ、本当にびっくりした。どんどんどんどん血圧が下がっちゃって、あの時Wさんは半分死んでたんだからな。」と、その時の様子を何度も診察室で語っておられた。そして、「あれは事件だ」ともおっしゃっておられた。
 
「運が良かった」と言えばそれまでだが、なぜこれほどまでに完璧にこれらの偶然が重なったのか。それは、「奇跡」としか言いようがない。   

奇跡だなんて、今の時代に非科学的だと笑うかもしれない。しかし、世の中には常識では考えられない、あるいは起こり得ない不思議な出来事が実際にあるのだ。
 
人は誰しも、自分の力で生きているような勘違いをしているが、実はそれは、人間の力を超えたものによって生かされているのだと思う。16年前の私も、運と自分の生命力の強さによって生きられたのではなく、人間の力を超えたものによって生かされたのだと思っている。
 
私は、現在多くの悩みを抱えて苦しい日々を過ごしてしているが、いついかなるときでも、きちんと向き合ってくださるお方を信じ、この世に生かされていることを感謝しながら、人の心の痛みがわかるような人間になることを目指して、精一杯生きたいと願っている。


△ページトップへ

タグホイヤースーパーコピー モンクレール ダウン コピー
カナダグース スーパーコピー ベルルッティ財布 コピー
シュプリーム スーパーコピー OFF-White スニーカー コピー
ヴェトモン コピー ハリーウィンストンスーパーコピー