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関東・東北豪雨被災 その後 H.M

9月10日、その日から約1ヶ月半が経ちました。「もう、そんなに時間が経ったのか」という感じがします。一方で、水が引いた自宅に入った時の事が遠い昔のことのようにも感じられます。現実感のないままに思いだされます。不思議な感覚です。

今は実家に寝泊まりし、自宅に通う毎日です。
床下の消毒は専門業者にお願いし、今は大工さんが連日自宅の修復にあたってくれています。大工さんの仕事が終わってから、壁紙貼りや建具の補修に経師屋さんが入り、床の消毒やワックスがけのためにもう一度専門業者に来ていただく予定です。その後に必要な家具や電気製品を用意し、自宅で生活できるのは11月中旬以降になるのではないかと思います。
 
今回はいろいろな繋がりの方々にお世話になりました。教会ボランティアセンター」からも何日もお手伝いをいただきました。教会の交わりにあるMさんは汚れたものを洗いものをしてくれました。地区女性部のつながりの方々が「水海道教会ボランティアセンター」を通して手伝って下さいました。

またHさんは「何か欲しいものはない?何でも言って」と電話をかけてくれ、「果物が欲しい」というととびきり美味しいオレンジ、葡萄等を直ぐに贈って下さいました。また、Iさんはタオルや手袋を大きな袋に詰めて送って下さいました。教区教会婦人会連合で親しくさせていただいたKさんは友人二人を伴って丸一日手伝って下さいました。一人はエマオでのボランティアの経験者、もう一人はボーイスカウトの野外活動指導者ということで、本当に手際よく働いてくださいました。
 
ボランティアに来て下さった方に「どちらから?」とお尋ねすると「〇〇教会の牧師です」「他教派の〇〇教会の牧師です」とのお答えが返ってくることも何回もありました。そういう偉い先生方に遠慮もなく「あれをして下さい、これをして下さい」とお願いしてやっていただきました。軽4輪持ちこみで、ごみ出しをして下さった先生もいらっしゃいました。
 
また、常総市社協ボランティアの方の助けもいただきました。その中に障害が見受けられる青年がいました。お母さんらしい方が「私たちは二人一組で働きますが、それでいいですか?」と仰られて、雨戸などの洗浄を一生懸命して下さったことが印象に残っています。お母さんの勇気に感動しました。皆さん、一様に気持ち良くどんな仕事も嫌な顔をせずに引き受けて下さったことを感謝しています。そして、感動しています。
 
これらの皆さんの働きに促されて、私も自宅の片づけが一段落した時に、「教会ボランティア」の皆さんと一緒にMさん宅の片づけを手伝う事が出来ました。まさに事情は様々で「スローワーク、その家の事情に合わせて」という言葉が身に沁みました。一緒に働く事でその方の思いを理解し、先へ進む手助けが出来ることも学びました。
 
「気分転換に…」という言葉を添えて香水を贈ってくれた方がいました。こんなときに全く実用的ではない香水のプレゼントは、泥の臭いや消毒液の臭いが普通になっていた私にとって、思いがけなく、とても嬉しくなりました。
 
「何も出来ないけれど…」と言って祈りの言葉を添えて、丁寧なお見舞いの手紙を下さった方々もいました。今回の被災を通して、本当に多くの方々に温かい言葉をかけていただき、お手伝いいただいたことを心から感謝しています。
 
また、私の直接知らない方々も、私の知らないところで祈って下さっていることを感じます。
 いかなる時も揺るぎのない神様と、温かい思いを持って、様々な形で接して下さる方々に支えられて日々を過ごしています。

婦人会リレーエッセイ 第12回          N.I

コーラスに魅せられて          
何をしても続かない私ですが、唯一小学生のころから続いているのが合唱です。小中学校時代はNHKのコンクールへ、高校時代は朝日や毎日のコンクールへと三つのコンクールに出場するために勉強そっちのけで過ごしていたように思います。

コンクール会場の千葉の教育会館、中野の宝仙学園、国立音大、九段高校等へ出かけて行きました。千葉の九十九里に近い田舎から、汽車と電車を乗り継いで行ったのか、どうしたのか全く記憶にはありません。
高校ではNHK県代表になりました。あの時代はスタジオで歌って、録音テープでの審査でした。

結婚数年後、商売をするために水海道に越してきて、コーラスとは無縁の生活がしばらく続きました。三番目の子どもの手が離れた頃に、教育委員会の「合唱団募集」の回覧が目に留まりました。直ぐに入会して早いもので四十年近くになりました。仕事をしながら続けて来られたのは主人の理解と協力があったからと感謝しています。
 
この七年ほどは、大人数で歌うことの喜びを感じています。2008年春に県生涯学習センター主催の「第九を歌う講座」に参加して、仲間四人で楽しく下館まで通い秋に発表会をしました。その時に男性が足りずに、仲間のつてで「取手第九を歌う会」に応援していただきました。その時のご縁で両国「国技館の五千人の第九」に誘われました。それ以来毎年、仲間五人で参加しています。それも皆のお世話になりながらの参加です。

取手には多くの合唱団があり「第九を歌う会」にはいろいろな合唱団の方が参加しています。ドイツのバーデンバーデン市と交流があり、何度か訪独していたようです。知りあって一年後に秋の訪独に誘われました。訪独までの一年八カ月の練習期間をハイドンの「四季」という分厚い本を渡され、毎週取手まで通って練習に励み、暗譜出来るまでになりました。

2010年10月、古希の誕生日目前に紅葉の美しいバーデンバーデンへ出かけました。初めての外国への長旅、サポーターも募集ということで主人にも一緒に行ってもらいました。古い趣のあるホールでバーデン合唱団、オーケストラ、ソリストと共に歌いあげた時には感極まり涙が出てしまいました。

国技館の打ち上げで知り合った取手在住の方から、銀座並木合唱団のサントリーホールでの第九コンサート参加の声をかけていただき、仲間二人で参加しました。練習会場は由緒ある銀座の対明小学校でした。指揮者が文京大の先生だったので越谷のキャンパスまで行って練習したこともありました。2013年7月にサントリーホールで歌えた事は夢のようなよい思い出です。

この秋には「第九を歌う会」と合唱連盟合同の5年毎の企画としてバーデンオーケストラの女性指揮者を迎えます。総勢300人で日本の曲と第九を演奏する予定です。少しオーバーですが、私の音楽人生最後かと思いながら、参加したい一心で主人に助けられながら練習に通っています。

「大切なものは奪われていない」 H.M

この度の水害で床上150センチの浸水に逢いました。近所の友人では天井まで、180センチなどの方もいます。

10日の午前10時前後、激しく降り続く雨の中で防災無線の放送がありましたが、聞き取れません。市役所へ電話で確認すると「水海道有料道路を無料開放します、という放送です」とのことでした。了解した後でついでに尋ねました。「国交省のデータによると鬼怒川水海道計測所では氾濫危険水位を超しているようですが、市はどう対応するのですか」と。「現在関係機関と協議して対応を検討中です」という返事でした。それからほどなく、いきなり、常総市水海道地区に「避難指示」が出ました。その前に「避難勧告」は聞かなかったと思います。

床上150センチは思い及びませんでしたが、低い地域であることは承知していましたので、貴重品と二日分の着替えを持って、パソコンを二階に上げ、コンセントは全て抜き、コードをテーブルや出窓に上げ、ブレーカーを切り自分の車で隣市の実家に避難しました。

昼過ぎの12時50分ごろ、鬼怒川堤防決壊をテレビのニュースで知りました。三坂は常総市の北部で、私の家からは10キロほど離れています。その時点で床上浸水があるかも知れないと思いました。

私の近隣に浸水が始まったのは10日の夕方からと近所の方から聞きました。伝聞によると、付近の浸水は鬼怒川決壊により流れ着いた水よりも八間掘の水だということです。鬼怒川の水門を開けたとか、閉じたとか言われています。行政も精いっぱいのことをしてくれていると感謝しています。感じとしては「とにかく雨が異常に多かった」ということだと思います。誰がどうしたとしても浸水は免れなかったかもしれませんが関係機関の見解をはっきり聞きたいと思っています。

私が自宅を見に帰ったのは12日の午後です。一階にあったものはすべて水につかりました。ほとんどのものを廃棄しました。システムキッチンのセットは一応残しましたが、掃除しきれないところや変形があり、廃棄しようかと思っているところです。家は外壁、柱、床など構造部分には問題ありません。消毒をし、乾燥を待って修理する予定です。

一階部分全体の大規模リフォームというところでしょうか。大工さんが「気分が変わって、いいぞ!」と元気づけてくれます。私も「そうね、今度はピンクの壁紙でも貼ろうかしら?」と応じています。

電気製品、客用布団、パソコン周辺機器、一部の書籍、写真、書類、履物全部、その他生活用品の多くを失いました。こんな目にあって思うことは「生きて行く上で必要なものはそれほど多くない」ということです。

不思議なことに、失ったものを惜しいという気持ちはそれほどありません。今後、身の丈に合わせて揃えて行けばよいことです。頭の中にある思い出は、洪水といえども奪うことはありません。

今、有り難いと思うことは、肉親や信仰の交わりにある友が示してくれる温かい見舞いの言葉や差し伸べてくれる多くの手助けです。そして、それらを通して証しされる神の存在です。肉親を含めた友人と神様の存在さえあれば、後は便利かどうかという比較の問題です。大切なものは奪われていないと実感しています。

目の前に処理しなければならない事が多すぎるせいかどうか、感傷に浸る事もありませんが、泥の匂いの中に金木犀がいい香りを漂わせていることに気付いた時には目頭が熱くなりました。

教会ボランティアの皆様には大変お世話になりました。水海道教会の交わりにある皆様、教区の先生方や信徒の皆様、他教派の方々、茨城地区の先生方や信徒の皆様、二葉幼稚園のご父兄の皆様等々多勢の方にお力を貸していただきました。また、見舞いの電話・メール・お手紙を多々いただきました。本当にありがとうございました。

学園のトップとして大変なご苦労の中にある加藤先生を神様が守って導いてくださいますようにお祈りいたします。被災された教会の交わりにある友人の上に神様のお守りと導きがありますようにお祈りいたします。アーメン

混乱と不自由な中でまとめましたので、思い違いなどがあるかと存じますがご容赦くださいますようにお願いいたします。Ω

婦人会リレーエッセイ 第11回       M.M

3本の柑橘類

わが家の狭い庭に柑橘類が3本あります。

1本はデコポン、ブロック塀と浄化槽の間、数センチくらいの非常に過酷な狭い所に植えられていますが、毎年、実をつけてくれます。少し酸味が強いので果汁をドレッシングのお酢の代わりに使用しています。

 2本目は温州ミカンです。毎年、花もつけ実もつけますが実は生育途中で落ちてしまいます。あまり陽がささない場所なので実つきも悪いのだと思い、今年の春、日当たりのよい所に移植してみました。根付くかと心配していましたが、6月下旬頃白い花がたくさん咲き7月中旬頃には、緑の小さい実をたくさん付けました。

楽しみにしていましたが、残念ながら実は落ちてしまいました。諦めきれずどこかの葉陰に青い小さな実が残されていることを期待しながら待つことにします。
 
3本目はキンカンです。教会クリスマス愛餐会で、皆で食べたキンカンの種を持ち帰り播いたものです。次の春には芽を出して十数年、今では1メートルくらいに育っています。この間、実をつけることはありません。

ファイル 677-1.jpgしかし、3本ある柑橘類の中でなぜかキンカンの木には春になるとアゲハ蝶が産卵に来ます。しばらくすると黒い幼虫を見ることができます。今では、実は諦め幼虫の成長していく様子を、毎日楽しみに観察しています。この繰り返しは夏の終わり頃まで続きます。

実をつけることのないキンカンの木も、小さな命の営みの木として必要とされ用いられているのです。神様は、全てのものを必要としてお造りになられた事に改めて気付く事が出来ました。
 
ところが、実はつかないと思っていたキンカンに、昨年2個の実がつきました。アゲハ蝶からのプレゼント?それとも神様の恵み?…と思わず顔がほころびました。これからもアゲハ蝶の憩いの木として天の恵み、地の恵みを受けながら成長していく様子を見守りたいと思っています。

婦人会リレーエッセイ 第10回

青年会のころ       A.T

喜びも悲しきことも悠(はるか)なり      
          ゆっくり上る老いの坂道    A.T



私たち老人は大変な時代を生きて来た。幼少のころ満州事変があり、11歳のころに日支事変(日中戦争)が始まり、大東亜戦争(太平洋戦争)へと続いた。物心ついてからいつも戦争があった。

…育ち盛りにお米のご飯はなく、カボチャやまずいさつま芋が主食、食べられる野草を土手で摘み、土筆(つくし)も美
味しく食べた。

大学受験で上京した時は二度も空襲に会い、ビルの地下に逃げ込み、もう最後かと覚悟した事もあった。

やっと戦争が終わっても戦後の混乱はひどかった。上野駅の地下には焼け出されて親を失った子供たちが大勢いて「何か~、何か~」と食べ物をねだり通りかかる人を追いかけてくる。
 
そんな時、鈴木通夫という青年が、戦地からの引き上げの途中、上野の光景に驚き、周りに集まって来た子どもを連れて那珂町の実家に帰り、面倒をみているという話を耳にした。

ファイル 667-1.jpg
写真:初期のチルドレンズホーム 後列左端が鈴木通夫氏 この子どもたちも、今や老人になっていることだろう





当時の私たち教会の青年会は、子どもたちを応援しようと、絵本・下着・古着などを送り続けた。今北海道にいるNさんは裕福なお家で兄弟姉妹が多かったため、沢山の絵本や子ども服を送って下さった。また、小麦粉で作った団子、さつま芋の飴、甘くない菓子等も送ったが、そんなものでも喜んで食べてくれたということだ。
 
鈴木青年はその後“チルドレンズホーム”を作り、どんどん集まる孤児たちを面倒見たという。それから十数年、中心だったTさんも結婚、ご主人に亡くなられ橋本町の小さな家に一人で住んでいた。

或る日、鈴木青年(もう老人だった)が大きな車でお礼に見えられた。私も呼ばれたが、あまりに立派な方で何を話したか全然覚えていない。県庁の知人に伺ったら、当時の岩上知事に認められ、是非にと請われ県の教育委員や福祉関係財団法人の要職にあったということだった。

現在も“チルドレンズホーム”は那珂市額田にあり、親の虐待を受けていた子などを育んでいる。そして、その施設長はかつてのホームの子どもだとのこと。私も脚が悪くなければ訪ねてみたいと思う。

でも鈴木青年も皆のお母さん役だった石川小母さんも召天されたとのこと。後で知ったが鈴木青年も石川小母さんも “常陸太田キリストの教会”の熱心なクリスチャンで、石川小母さんは毎日欠かさず聖書を読んでいたということだ。

もうひとつ、青年会が力を入れたのは農村開拓伝道(一寸大げさ)。日曜礼拝が済んでからメンバー10人くらいで大生村(現常総市)を訪ねた。

大きなお百姓さんの庭をお借りし、朽ちかけた低い縁が私たちの聖壇。戸板一枚を横にしてその上で紙芝居や人形劇などをやった。うれしそうに仰いでいる大勢の子どもたちの笑顔を見ると泥道を一時間余り歩いて来た疲労も吹き飛んだ。

賛美歌の指導、聖句の暗誦、ゲーム等をした。三時間ほどを戸外で子どもたちの心を集中させるのに苦労した。ゲームに慣れていないのでリーダー探し、ゼスチャー等個別に指名されるのが心配で落ち着かない様子。

これからは全体ゲームにした方がいいね、と反省した。又、私たちの服装も地味質素にしよう、真夏は夕方から夜にかけて幻灯会がいい等の計画をした。

びっくりしたのは水の汚さ。子どもたちはその水を美味しそうに飲む。夕暮れの帰り道、田んぼにはまだ働いている人の姿がある。私たち女性達は「農家へなんか嫁に行くのはよそうね」と語り合い、男性達から「それでも忠実なる神の僕なのかよ」と笑われた。

次の日からはそれぞれ学校や職場へ戻り、次の日曜日は川又(現・常総市川又町)へ伝道に行くことになる。

神様に喜ばれようと真剣に歩んだ若き日。思い出は今も私の心の支えになっている。

婦人会リレーエッセイ 第9回

若かった頃          H.H

昔、東京の麻布に住んでいて、霊南坂教会で洗礼を受け、銀座の第一銀行で働いていました。太平洋戦争が激しくなり、水海道で箪笥屋を営んでいた祖父を頼って当地に疎開してきました。

水海道へ来てからも、常総線、常磐線、地下鉄銀座線と乗りついで通勤し、第一銀行の勤めを続けていました。防空頭巾を持って、片道3時間かけて通う毎日でした。朝5時に家を出て、今では考えられないほどの満員の列車に押し込められて、8時に銀行に着き、夕方5時まで勤務して、水海道の家に帰りつくのは夜の8時でした。今振り返ると、若かったから出来たのだとつくづく思います。

その頃は食糧事情が悪く、3時間もかけて遅く帰宅しても、夕食はお米を少し入れたお粥のようなものや黒いメリケン粉(小麦粉)を入れたドロドロしたものだけしかありませんでした。けれども母はその鍋を火鉢にかけて温めて待っていてくれたのです。また、母は途中で何かあった時に食べるようにと言って、大豆を炒って持たせてくれたものです。

常総線に乗っているときに寺原駅辺りで艦載機が低空で飛んで来た時がありました。座席に座って窓近くにいるのは危険だと言われて、油臭く汚い列車の床に伏せたことがあります。また、常磐線の松戸駅辺りで、やはり艦載機が近付き、列車から飛び降りて必死で走り、近くの林に逃げ込んだ時がありました。

東京は空襲がひどく、銀座も襲われ、前の日に見た街並みがすっかり変わりはて、銀行の前の洋服屋さんが一晩で焼け落ちてしまったことを覚えています。

戦後は、上野駅の銀座線への乗り換えの時に通る地下道で、空襲で家や家族を失った人々が、ひどい匂いをさせながらうずくまっているのを見ました。また、小学生くらいの子どもたちが「チョコレート!チョコレート!」と言っては進駐軍のアメリカ兵を取り囲んでいる姿も見ました。

そのアメリカ兵たちが銀行へやって来ることがありました。窓口で「フジヤマ、フジヤマ」と言って両替を求めてくるのです。当時の50銭札に富士山がデザインされていたからです。窓口へ来た黒人兵のピンク色の掌が印象に残っています。

そのようなことを体験しながら戦後も半年くらいは銀座まで通っていましたが、肋膜炎にかかり勤めを辞めて、半年間寝たきりの闘病を続けました。薬も不自由な時代でしたがS先生のお世話になり快復することが出来ました。

病気が回復して、しばらくしてから、二葉幼稚園に勤めさせていただきました。
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  (写真説明:昔の水海道教会・二葉幼稚園)

その頃は、朝7時半に出勤して、東は渕頭、北は二高の先、西は豊水橋の方、南は山田町まで、てくてくと歩いて子どもたちを迎えに行きました。子どもたちは二人ずつ手をつなぎ、所によっては20人~30人の長い列を作って延々と進みました。

1キロメートルほどの道のりを歩いて橋本町の幼稚園に着きます。9時半になるとベルが鳴り園舎に入ります。白組は礼拝堂、青黄と青組は小さな部屋に別れて朝の礼拝です。讃美歌を歌い聖書のお言葉を聞き、お祈りを毎日いたしました。

それから机を出して絵をかいたりして、お昼になると給食です。その頃から金曜日はドーナツでした。2時にはお帰りです。背丈が地面から1mくらいの子どもたちにはとって、夏など帰り道が暑かったことと思います。でも皆んな楽しそうに手をつなぎ、歌を歌いながら、朝来た道を家まで歩いて帰りました。

子どもたちを家まで送り届けてから、先生は一人で幼稚園まで歩いて帰り、園舎を掃除し、保護者へのお手紙を用意したりして、6時頃家に帰りました。

今年は戦後70年。戦中戦後を体験した私たちの年代の者がいなくなると、あの頃のことが分からなくなってしまうのではないかと思い、昔のことを書かせていただきました。

婦人会リレーエッセイ 第8回      

私の故郷                  K.K

日曜日の夜8時、 NHKの大河ドラマ「花燃ゆ」で取り上げられている萩市は私の故郷。ドラマの時代には長州といわれていました。

私の子供の頃は、いまのように観光化はしていなかったのでいたってのんびりした子供時代を過ごしました。

城下町で町名は当時の職業別に付けられており、例えば、瓦町、鍛冶屋町、田町等。また 豪商の住まいがあった所は、菊屋横町、伊勢屋横町、熊谷町などの町名でした。 

萩のお土産といえば昔は夏蜜柑でした。 明治維新で収入を失った武士の収入源として邸内に夏みかんを植えたのが始まりと伝えられています。武家屋敷が多く残っていて、堀内の塀の上から黄色く色づいたみかんと緑の葉がのぞいており、土塀に調和してステキなものです。花の咲く6月頃はすがすがしい香りが漂っています。ファイル 650-1.jpg

こんにち萩のおみやげといえば萩焼、橙(だいだい)菓子、かまぼこ、海産物など。最近の報道によると、「明治の産業革命世界遺産」の登録の話しが持ち上がっているようです。

高校生のころ時どき行った毛利家の菩提寺の東光寺(3代目から11代まで、奇数に当たる藩主の墓がある)境内は深い森に囲まれ、藩士たちの寄進した約五百基の石灯籠が並んでいる静かな落ち着く所です。仲のいい友たちを誘って自転車で20分位かけて出かけて行き、気に入った場所に座り、ぼんやりしているだけで元気を取り戻したような気になりました。

椿の木が沢山あって花の咲く季節もいい思い出です。越ヶ浜には小規模な死火山があり、噴火口の周りには亜熱帯地方の植物があります。

山を下ると大きい池があり火山岩の隙間から海水が入りこみ漁師さんが水揚げした魚の数匹を、感謝の気持ちで池に放します。池の周りには観光客を相手に海産物をとりあつかうお土産屋が沢山あり魚のあらを空に向かって放り投げると沢山のとんびがそれをねらって一斉に集まって来ます。それは見ごたえのあるシヨーです。

私は帰郷するたびに、観光客があまり行かない通りを歩き、維新当時に活躍した侍たちの旧宅にかかげてある説明文を読みながら従姉たちの家を訪ねます。
 
明治維新で多くの有名な人が出ましたが当時の武士の妻たちの思いを歌った民謡が残っています。

男ならお槍かついで
お中間(ちゅうげん)となって
ついて行きたや下関
お国の大事と言うからにゃ
女ながらも武士の妻
まさかの時には締めだすき
神宮皇后さんの雄々しい姿は
鏡じやないかいな
オオシャリシャリ

地元に残っている同級生の何人かが、自ら家の商売を大きくし、男勝りの仕事をして頑張っているのを見聞きするのは嬉しいことです。 
 

婦人会リレーエッセイ 第7回        S.A

継続は力と言うけれど… 

3年前、友人数名とNPO法人(営利を目的としない団体)を設立した。

親しい友人Tさんが『東京大学市民後見養成講座』を受講したことがきっかけだった。講座修了時、講師の先生から「それぞれの地域でぜひNPO法人として活動してほしい。」と励まされたらしく、折にふれて「ねえ、どう思う?」と問いかけられた。

初めはあまり乗り気ではなかったけれど、Tさんの熱意に「やってみようか!」と重い腰をあげた。Tさんと同様に養成講座受講修了者が数名仲間に加わり設立準備会を経て、平成24年6月9日に設立総会。NPO法人のことなど何もわからないのに船出は早かった。

NPO法人With(ういず)は、「市民後見センターじょうそう」として、【認知症、知的障がい、精神障がい等により、判断能力が不十分な方々の権利や財産を守る】成年後見事業を開始した。

様々な内部事情で、設立当初の理事長を私が担うこととなり、法務局に出向き法人登記、行政への様々な書類提出、チラシ作成やPR活動、財政のこと等、小さな法人だがスタートするには多くの労力を必要とした。が、仲間と一緒だから前に進むことができた。

4月から設立4年目の歩みが始まった。Withは家庭裁判所の審判を経て6ケースの法人後見を受任している。思いが形となっていく喜びもあるけれど…悩みも多い。法人を運営していくことの重圧に、私は少し疲れてしまった。

でも、投げ出すわけにはいかない。担当するIさん宅への訪問を始め、5月の法人総会に向けて資料作成、行政への書類提出など、しなければならないことが多すぎる。一緒に活動する仲間のほとんどが仕事と掛け持ちだから、みんな同じような思いを胸に秘めているだろうし…。継続することの大変さを痛感

婦人会リレーエッセイ 第6回

ひと時の出会い      K.S 

ここに住居を移して47年がたちました。その間私たち家族は、春休みや夏休みには故郷の山形県庄内へ出かけました。朝6時過ぎに家を出て、母が待つ家へ昼ごろ到着します。東京駅から新幹線で2時間、新潟で特急「いなほ」に乗り換えて日本海側を2時間という道程です。時には私一人の旅もありました。
 
ある時、日本海の波は穏やかでキラキラ光って上天気でしたが、列車が土砂崩れのために途中で立ち往生してしまうということがありました。車内は一時ざわめきましたが、大事にならない様子に直ぐに静かになりました。ファイル 632-1.jpg

私の隣には「やっと休みが出来て、美味しいお寿司を食べに酒田まで行く」という青年が乗っていました。母への土産の駅弁を分けあい、酒田の話などをしながら停車中の車内で時を過ごしました。別々の、振り替えバスに乗ることになり、そこでお別れをしました。「いなほ」なら素晴らしい日本海の景色を眺め、水平線に落ちる夕陽を見ることもできたのに…。あれからどの様な旅をしたのかしらと思ったものでした。
 
こんな事もありました。最上川のほとりに住む友人から朝取りの山菜を駅で受け取り帰宅の途についた日のことです。途中の駅からリュックに菅笠をくくりつけた方が私の隣に座り「毎年、兄弟に山菜を届ける。今も山から下りて来た」と話し始めました。私は友人から貰ったばかりの山菜の料理を教えてもらうことが出来ました。
 
山形で母の遺品の整理をし終えて飛び乗った最終の「いなほ」、新潟の空はもう真っ暗になっていました。隣に座った方に、青年がときどき『先生』といって、様子をうかがいに来ます。私は「よかったら、席を替わりますよ」といいました。

『先生』は「天然記念物のトキのことで佐渡からの帰り」ということでした。東京駅のホームについた時、多数の人が、先に列車を降りて『先生』を迎えていました。大勢のカメラマンや記者など取材の人たちが自由席に乗っていたようでした。

トキ放鳥のニュースを見て、あの時、母のいない家が淋しくて、急に予定を変更して帰路につかなければあの出会いはなかったと思いました。
 
この日、この時、この列車、この席と確り決まっている指定席でいろいろな出会いがありました。生涯にただ一度の出会いでも再び会える方との出会いでも、その時の出会いは一度限りです。大切にしたいと切に思うこの頃です。

先日30年来の友人たちと二カ月ぶりに昼食を共にしました。「次は花見ね、お元気で」と別れました。

ベルギーの生活環境

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ブリュッセルやブルージュの街を歩いて感じたことは、人々があくせくしていないということだった。普通なら仕事をしているだろうという時間にティータイムやランチタイムを優雅に過ごしている。すごいごちそうの食事をしているということではなく、ゆったりと良質の時間を過ごしているという感じ。

私たちのツアーのガイドをしてくれたチョーさん(日本に長く住んでいた韓国の方で現在はベルギーに在住)に「こちらの人たちは皆ゆったりと自分の生活を楽しんでいる感じだが、老後の心配はしないの?」と聞いたところ「誰も老後の心配などしていない」という答が即返ってきた。

社会保障がしっかりしているから『老後のために貯金をしなくては』とか『身体が弱くなったら誰に面倒をみてもらおうか』という不安もないというのだ。将来に不安を感じない、いつも安心して過ごせるとは、なんてすごいの?!「それにしても誰がお金を出すの?」と聞いたら彼女は「富裕層だ」と笑っていた。
 
ベルギーの日本大使館では、ベルギー在住23年のジャーナリスト・栗田路子さんからとても興味深いお話をうかがう機会があった。
 
彼女は日本で結婚したが、28歳の時に夫が急逝。未亡人になって日本では生きにくさを感じアメリカへ留学。その後ベルギーに渡って再婚した。現在は夫とベトナムから迎えた国際養子縁組をした2人の子どもがいる。長男には重度の障がいがあり、彼女自身も2度の乳癌の手術を経験する中で、「輝ける環境を提供してくれるベルギー」を実感したそうだ。
 
ベトナムからの養子であっても養子縁組をすればベルギー国籍が得られる。また、5年以上ベルギーに住み税金を納めれば市民権が与えられ、年金支給やその他の社会保障の権利がもらえる。日本国籍の女性が養子縁組をした重度の障害をもった子どもでも社会福祉の恩恵が受けられる。その事を申し訳ないと思っていた時、普通の介護士さんに「あなたはあなたにできる形で社会に貢献すればいいのよ」といわれ、とても救われたといっていた。
 
ところで、ベルギー人は「休暇のために働く」といわれ、子ども好きで、家庭が一番という国民性だ。労働時間は週当たりの上限が38時間、どんなに仕事が残っていても社員は時間になると帰宅する。早朝から働き始め、ランチ休憩もほとんど取らず、時間がくれば一目散に帰宅する。そのために午後3時から4時には帰宅ラッシュになるという。家に帰ったら家族と過したり、自分のために時間を使う。

有給休暇は100%消化。男女の育児休暇、家庭生活との両立のための時短勤務や自宅勤務、キャリア休暇(ベルギー独自のもので国が手当てを支給する)なども普及しているということだ。

企業は毎年定期的に休暇を取ることを奨励していて、長期休暇の予定を職場と家庭で1年前には調整して決めるので、その時に仕事が集中しても、突発的な仕事が入っても、休暇は休暇。誰もそれをとがめないそうだ。

税金は55パーセントだが非正規雇用はなく、全ての労働者が労働基準法に守られているので休暇を取ることができる。ベルギーでは税金は高いが、教育費や医療費がほぼ無料という高福祉、高負担社会を実現しているからかもしれないが、人々にとって長時間働くことは美徳ではなく、出世欲やエリート志向もほとんどないということだ。それよりも、家族や自分や社会のために週末や長期休暇を過ごし、定年後にゆったりと時間を使うことを至福の喜びとしているようだ。
 
ガイドのチョーさんとジャーナリストの栗田さんの話と、ベルギーの空気から、一人ひとりの人権が大切に守られ、全てのことに関して社会全体で取り組んでいる姿がうかがえた。


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