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歴史を知り今を歩む 加藤久幸牧師

ファイル 888-1.jpgここ暫く、牧師の原稿は水害・復興という事柄に触れざるをえず、内容としては数年・数十年という範囲を扱うものでした。しかし、今年は宗教改革500年、「今」を500年というスパンで受けとめ直す、良い機会を与えられていると思います。

「信徒の友」が、9月・10月号に、各々「宗教改革」Ⅰ・Ⅱの特集を組んでいます。皆さんと「宗教改革」「今」を共有するために、特集の文章を引用したいと思います。

1.全信徒が祭司であること(10月号)
ルターは…1520年に書いた『キリスト者の自由』の中でこう述べています。「私たちは祭司である。その意味では、王であるより、はるかに優れているということである。祭司の務めを与えられていることで、私たちは神の前で他の誰かのために祈ることができる者とされる。神の前に立って祈ることは、祭司以外には許されていない。

…〔しかし〕私たちは霊的に、他の人に代わって祈ることができるようにされた。…キリスト者は祭司としては、神を動かす」。つまりルターは、洗礼によってキリストと一つにされた者なので、「キリスト者が祭司であるゆえに、キリスト者も祭司なのである」と言おうとしたのです。この私たちの祈りが神を動かす!(15~16頁、下線付:加藤)

全信徒祭司性という考え方は、近代社会の中で常識となった平等という考えとは直接につながるものではありません。…むしろ私たちひとりひとりに神から与えられた使命の違い、賜物の多様性を自覚させてくれます。

…プロテスタント教会はこの全信徒祭司性を説明するときには、常にそれに続いて「神からの召命」について力強く語ってきました。「召命」という言葉を聞くと、聖職者となることへの神の特別な召しのことだと考えるかもしれません。けれども宗教改革者たちの教えの特徴の一つは、すべての人に、そしてすべての人がなしている仕事、それどころか親、兄弟、友人などの関係もまた神からの召命だという考え方です。それらは皆あなたにしか担い得ないこととして神があなたにだけ与えた召命なのだと説明したのです。(16頁、下線付:加藤)

2.私たちはここに立つ(9月号)
 宗教改革の原理に信仰のみ、全信徒祭司性といったことが言われますが、最終的には「聖書のみ」に集約されていくような気がします。聖書のみから神の言葉を聞く。ルターが残したところの本意は「そこに固く立つ」という形で時を超えて残されました。日本の教会を建てたのもそれですが、そこから今わたしたちが立つところを見直すべきではないかと思います。(25頁)
 
「聖書のみ」が…多様性を誘発し、アメリカにおいて多様に広がっていきました。日本では諸教派乱立という状態が、何となく悪いことであるかのように受け止められることがあります。多様であることそのものが豊かさであり、その上で一つとなること、そのような文化になれていないのではないでしょうか。「聖書のみ」との言葉が画一的理解へと進むのではなく、神の言葉に真剣に聞くからこその多様な読み方の豊かさへと導かれる、そこに真のエキュメニズムがあるのではないか」(26頁、下線付:加藤)

3.感想
 今回の特集は歴史を振り返るよう促され、しかも「排除されていった人たち」に注目しています。
 ルターは、教会から破門され帝国から排除され、ザクセン選帝侯〔領邦国家〕の保護を受けました。
 他方、カルバンのジュネーブ市の宗教改革運動は、異なる者たちを処刑・断罪していきました。
 宗教改革の光と影ということが言われますが、
「信徒の友」9月号は次のように指摘しています。

「不寛容さが似ている分、宗教改革の歴史は参考になります。今起きていることはキリスト教の歴史を見れば必ず起きているのですから、それに彼らはどう対応したのかがわかっているのですから、この対応はしたくないという逆の参考になることもあります。」(27頁)

4.まとめとして
 私たちは、「聖書のみ」というと、みんなが一つ・一致すると考えます。しかし、今回の特集は、「聖書のみ」は多様性を誘発すると、指摘します。「神の言葉に真剣に聞くからこその多様な読み方の豊かさへと導かれる」のです。そして、今は細かに語れませんが、「聖書のみ」に集中していくと、聖書に、聖書の世界そのものに多様性が示されていると思います。そして、神が「多様であることそのものが豊かさであり、その上で一つとなること」を示されているのではないかと思わされます。
 
「ここに固く立つ」というのは、私たちが立っている制度・文化・国、各々の時代や状況ではないでしょう。しかしながら、私たちは、この世を、地上を旅する者として、与えられた場所・時間や各々の立場に立たざるを得ません。その時、私たちは、「すべての人がなしている仕事、それどころか親、兄弟、友人などの関係もまた神からの召命だ」と、信じ受けとめるのです。この世的には光と影が行き交いますが、信じる者は、神の「召し」に立たされ〔立つこと許され〕、そこが恵みであり祝福であると受けとめることができるのです。

〔人間は完全にはできませんが、〕召してくださった方が完全に応えてくださると信じ、立つことができるのです。昔も今も、そして、未来も、神が動いてくださると願い、私たちは神の前に立って祈ることが許されています。

神の前に立って祈ることにおいて、私たちは「一つにされた」者であり、「一つにされていく」者なのだと、思います。それ故、「この私たちの祈りが神を動かす!」と言い表すことができるのではないでしょうか。

【注】今号は「牧師室の窓」をお休みします。


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