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不思議          加藤久幸牧師

ファイル 928-1.jpg今年は、日本列島の各地に、今までにはなかった「異常」気象が続いているように思われます。今までの挨拶や対応では通じないことが起こっている…。先日、北国で雪が降ったかと思うと、今度の土日(21日・22日)は全国各地で30度を超える真夏日になるところもあると、予報されています。実は、今までにあったことなのかもしれませんが、しかし、生身の人間として、不思議に感ずることがいっぱい起こっています。

 先日、Iさんの葬りの営みに、年長児のお孫さんが、最初から最後まで、付き合ってくれました。
大人からすれば、「自宅で最期を迎えたい」とか「尊厳死」とかが話題になる、最近の時勢です。

しかし、小さな子どもにとっては、〔死・遺体を見ることを含め〕葬りの営みは「めったにないこと」「想定外」の出来事で、たくさんの不思議があったことでしょう。幸いにもと云うべきか、そういう事情を心に留め、ご両親が丁寧に対応されていたように思います。
 
火葬の時、そのお子さんは、「なぜ火葬にするのか?」という疑問を示されました。私は、そこにいてくれる小さな遺族と参列者に、咄嗟に「火葬」にする意味をお話することになりました。


新年度が始まり、こども園では、子どもたちが人生初めてのたくさんの不思議に出会い、懸命に生きています。こどもたちが直面する不思議は、当たり前で、大事な問いかけを含んでいることがあります。大人の私たちも、いくつになっても、新しい日を迎え、不思議に感ずる事に出遭います。
 
私たち大人は、豊かな情報や知識・ツールを得て、何とか対処しているのでしょう。しかしながら、現代の子どもも含め、生身の人間として、新しい事態や変化に対応する人間の力は衰えてきてはいないかと考えてしまう、時勢でもあります。
 
どんな小さなことであっても懸命に生きる、命が懸かっている、そういう子どもの姿から学ぶことはあるのではないでしょうか。――火葬の場で「死んだ者は腐る」と語ったのですが、「命があっても死んでいる」、「命が与えられて生きている」等々、改めての新しい不思議に包まれています。

Aくんはお空に行った       加藤久幸牧師

ファイル 922-1.jpg園児A君(3歳児・黄組)の急逝については、巻頭言では触れました。ここでは、私が感じたこと、思ったことを、記しておきたいと思います。

事態は、突然起こり、休む間なく、進み続けました。事態は受けとめがたく、事態を受けとめる心も揺れ動き、定まりません。ご家族は、A君の病状と家族の状況を、園に知らせてくれました。

受けとめられない「時」があり、ことばにならない「時」があります。1か月の間、ご家族と日々の必要なやりとりをしつつ、広く公にしないという「秘密」を守り、過ごしました。
 
人にわかる・できること・やりたいことを、やればよいというものではありません。そのことによって、かろうじて保たれている歩み・関係・置かれている場(世界)を崩してしまうことがあります。すぐに台無しになり、奈落を体験する、そういう現実も、あちらこちらにあるのです。
 
どう受けとめる、何をわかる、何を共有する、
誰に伝える、様々思い巡らし、わからないことや伝えられないことがあることを、体で思いました。
 
3月14日(水)葬儀は、仏式により家族葬で行われました。悲しみの中にも、ご家族が愛情に充ちて臨まれたことを感じました。式後の挨拶で父親が「Aは空にいった」と表現されました。 
 
3月16日(金)、園で、こどもたちにA君の死を伝えました(各ご家庭にも手紙を出しました)。私は、「遠いお空に行ったんだよ」と伝え、「天使になったかもしれない」と話しました。
 
二葉幼稚園の歌は、一番でこう歌っています。
「おみみをじっと すましたら
 とおい とおい おそらから
 きらりん きらりん きこえるよ
 ひかりの てんしの ほらあしおとが」

死が終わりではないのです。事態は、わからないことは、ことばにできないことは、続きます。

ファイル 922-1.jpgこどもたちの受けとめ方も一人ひとり違います。特別な反応が現れないならば事無しではなくて、
A君ご家族も、園児たちも、彼らの日々の歩みと心の旅は、なお、はるかに、続いていくのです。
 園長(牧師)の働きを深く考えせられています。

渡辺和子さんを読む      加藤久幸

2月中旬になり、関東では厳しい寒さが和らぎ、温かい春の日差しを感ずる日が増えてきました。

二葉こども園でも、少しずつ、卒園などの準備が始まろうとしています。園長の心に準備になればと思って、渡辺和子「目にはみえないけれど大切なもの」(PHP文庫、2003年)を手にしました。


彼女は、「かれは自分の羊のおのおのの名前を呼んで外に連れ出す」(ヨハネ10・3)と聖書を示した後、「教育という語源に『引き出す』という意味があることはよく知られているが、…真の教育のめざすところは、一人ひとりがユニークな自分になりきること…、そして可能性を実現するために必要な条件は、『名前を呼ばれること』、つまり、独自の価値、独自の生活をもった一人として愛されていくことだ」と述べています。

 
もう少し紹介します。――「自分でさえ、汚い、みにくいと嫌い、隠していた傷口を『見せてごらん』と自分の手にとり、薬をぬり、うみを取り、包帯を巻いてくれる人を自分の身近に持つ人は幸いである。こうしてはじめて、私たちは、自分のみにくさを見つめる勇気を得ることができる。愛してくれる人とはそういう人である。

…その時はじめて私たちは、自分がそれほどダメでないこと、卑下しないでよいことに気づくのである。愛されて、私たちは、愛すべき人に変身してゆく。そして、やがて愛されるに価するものへと成長していくのだ。それは、見せかけの成長ではなく、ありのままの自分をあたたかく見つめ、そこから出発する着実な成長である。」 

 
渡辺和子さんは、シスターで、ノートルダム清心大学の学長も長く務め、2016年12月30日89歳で召〔帰〕天された。彼女の父.渡辺錠太郎(当時.陸軍教育総監)が1936年2月26日のクーデーター殺害されたことを知る方も多いだろう。(和子さんは9歳で、その一部始終を見ていた。)

彼女の著作に触れると、彼女の一回限りの人生の歩みそのものが、迫ってくる。
今回は、父の17回忌のための旅の道中、読み直した。「昭和」の時代、人の歩みを、心に納めた。

低みに立って見なおし・・・    加藤 久幸

2月11日(日)に教会協議会が行われる予定です。そこでは、
牧師の招聘が話題となります。違う言い方をすれば、私たちが「教会」をどういうふうに受けとめるか、受肉するかということが、焦点になればと、願っています。
 
イエスは、公の活動を始める時の第一声として、次のように語ったと、伝えられています。
  時は満ち、
  神の国はすぐそこに来ている。
  低みに立って見なおし、
  福音に信頼してあゆみを起こせ。
  (マルコ福音書1章15節 本田哲郎訳)
 
この後半部は、私たちが使っている共同訳では「悔い改めて福音を信じなさい」となっています。「悔い改め」だと、モラル(道徳)や上から目線を、感じます。本田神父は、「悔い改め」(ギリシャ語→メタノイア)は、その旧約の言葉(ヘブライ語→ニッハム)がもともと「痛みを共感する」で、そこから「低みに立って見なおせ」と訳すべきだと述べています。
 
もう一つ、本田神父の訳で共感を覚える訳に、
「はらわたをつき動かされる」(ギリシャ語→スプランクニツォマイ)があります。これは、共同訳では「深く憐れむ」となっています。本田神父は、「あわれみ」はこちら側の優位性・安全性が前提になっていることが多く、しばしば軽蔑の思いがひそんでいると、指摘します。全く同感です。そして、「あわれみ」は目にしている苦しみに同情するに留まり、「痛みの共感」は苦しみの原因を取り除く行動に向かわせると、述べています。

イエスの福音の活動は、この「はらわたをつき動かされる」「痛みの共感」から始まっています。教会・関連事業もこのことから始まっています…。では、福音とは何でしょうか。「良き知らせ」とも言われますが、「人がその人としてのびのびと生きられるような関わりに立つ」「一人ひとりが各々の尊厳を認めて関わり合う」、そういう不思議な世界に生きよ-との知らせ・呼びかけ・招きだと思います。「あわれみ」と「共感」は似て非なる故に、私たちも福音に身を委ねたいものです。

低みに立って見なおし、
  
福音に信頼してあゆみを起こせ。

不確実性の世に祈る       加藤久幸

12月8日(金)毎日新聞のコラム「余録」は、大変心に触れたので、全文を紹介したいと思います。
   ✻
願いをかなえるランプの魔人ジョークの一例である。ある人がランプを拾ったら魔人が現れたので、「月に行きたいからハシゴをかけて」と頼んだ。だが「ワハハ、いくらワシでもそんなむちゃはできんよ」

▲では地上の話ならばと「パレスチナとイスラエルの和平を実現してほしい」と頼むと、魔人は「エッ、えーと前の願い何でしたっけ」。千夜一夜物語の魔法も到底通用しない中東和平だ。そこに火を放つかのような演説である。

▲トランプ米大統領はエルサレムをイスラエルの首都と認め、米大使館を移転する方針を表明した。和平仲介への関与は続けるとしたものの、仲介役の一方的な態度表明への激しい反発はパレスチナだけではなく中東全域に広がっている。

▲大統領の願いはただ一つ、ロシア疑惑で揺らぐ政権の浮揚へむけた国内の支持基盤固めらしい。だが魔人は警告しなかったのか。それが中東の安定を破壊して、テロを挑発し、米国民の生命もを脅かす制御不能の混乱を呼び込む恐れを

▲わが子すら神の犠牲にしようとした聖書の預言者アブラハムを崇敬するユダヤ教、キリスト教、イスラム教は「アブラハムの宗教」と呼ばれる。その三つの信仰がともに聖地とするエルサレムを政治対立に巻き込む浅慮が空恐ろしい

▲物事のリスクの計算すらできない五里霧中を「不確実性」というが、まさに中東、いや世界に不確実性の霧をまき散らしたトランプ演説だ。人のいい魔人には手に負えない呪文「米国ファースト」の魔力である。

 
かの地は繰り返し対立が存在し衝突の絶えない場所です(朝鮮半島も)。そこは、何千年にもわたり、人間の「ファースト」が力を奮う時に何を生んだのかを心に刻み、「不確実性」を生きざるをえなかった場所でもあると思います。三つの宗教の聖地が共にあるという意味と現実は重く、その証しでもあります。現代イスラエル建国時と同様、特定の人間の「ファースト」「呪文」が世界を覆う。
昔も今も世の「不確実性」は変わりなく、「未来」を信じ覚めて祈り共に歩むべく招かれています。

確信犯

9月に九州に行った時に、目からうろこ」、聖書的には「目から丸太」(マタイ7章5節)のような体験をしました。
 
ある講師から、私の心に突き刺すように、「確信犯は、自分が悪いことをしているとは考えてはいない」と、教えられました。講師は、牧師としての体験も語りながら、相模原障害者殺傷事件の被告も「確信犯」の例であると、挙げられました。

 
この事件を、私たちがどう受けとめるのか。私たちの社会の課題として、多方面から検討され、
その解明が続いています。その一つに、彼の発想や考えが世界的に拡大している排外主義とどう関わっているかということも、よく話題になります。彼の断片的な獄中ノートには「トランプ大統領は真実を話している」という一節もあるらしい。

見聞きした報道から、被告は「障害者を殺害したことを悪いことをした」とは考えておらず、今も「正しいことをした」と確信し、それを世界に発信しようとしていると、私は受けとめています。
 
事件のことを述べるのが、今回の本題ではありません。本題は、「確信犯は自分が間違っていない」と信じていることです。まわりが認めずとも反対しても「自分は正しい」と崇高な姿を身にまとう「確信」者も、「よくわからないのですが」と言いつつ世俗や日常の場面で右往左往しながら行動し「噂」を拡散していく「庶民」派も――根底には「自分は間違ってはいない」という同じ信念が潜んでいるのではないでしょうか。

「正義」を訴えて「戦争」に打って出ようとする権力者に、「あなた自らが戦場へ赴けばよい」との感情的な反対論調が出ることがあります。戦争の賛成と反対の論争も、「自分は正しい」という信念によるだけでは、事態は決して打開しないのでしょう。何人も「戦場」に送ってはならず、誰も「紛争」の被害者となってはならないのです。

 
「偽善者よ、自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」(マタイ7・5)。隣人との関わり、万人が共に生きる世界の歩みのために、「想像力」を養い、行動する力を身につけていきたいものです。

情報

ファイル 879-1.jpg9月15日(金)朝7時にJアラートが「ミサイル発射」を告げました。その後、すぐさま常総市の幾つかの学校は「登校を控え、自宅待機」という緊急メールを発信しました。
 
二葉こども園は7時30分からの保育開始です。送ってきた保護者からも、電話による問い合わせも、いつもより多くありました。対応する職員に「通常通り」と伝えることを指示し、7時55分の朝会で「園としてはHPの通知も緊急メールも発信しない」ことを確認し、当日の業務・歩みが始まりました。
 
時間帯が通勤・登校(園)と重なっていたので、各ご家庭は判断・対応に追われたことと思います。(7時50分過ぎに「落ち着いて登校を開始するように」との防災放送が流れました…。)
 
教会では、9月10日(日)の教会アワーで「緊急時のこと」を話題にしました。そこでも多少触れましたが、最近の相次ぐ「緊急情報」に触れて思うことを、短く記します。
 
NHKの報道で、「相次ぐ巨大ハリケーンの襲来により、今までの気象予測システムでは対応できず、アメリカの気象業者ではハリケーンのコース予測等に膨大なデータを処理する人工知能の判断の活用が開始されている」と、報じていました。
 
正確な情報が適切に伝えられることは、大切なことです(かつての戦時のように、気象情報が軍事機密で、民間には知らされず、災害時に甚大な被害が起こることはあってはならないことです。)
 
しかしながら、国・市町村・民間・人工知能が判断して発信する情報も、最終的には、個人(その人)が受けとめ判断して行動することになります。

現在は、これらの情報が豊富に発信されています(情報格差の課題はありますが…)。情報量が多ければ、判断の困難さもあります。情報が溢れ、個人の「判断」「行動」は大丈夫か?と、問われています。あの「直ちに自分の命を守る行動をとってください」というメッセージは、そのような意味を持っているでしょう。そして、現在は、民間も個人も、受け手だけでなく、発信者でもあります。
 
個別の緊急時に対しても、今の時代をどう生きるかという課題に対しても、一人ひとり、各教会が、「受け手」「応答者」という主体でもあるのです。

混沌を生きる                 加藤久幸牧師


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最近の日本列島に起こる自然現象に触れて、「今までとは違う」と感ずるのは、歳を重ねてきたせいか。

――かつて日本にも高度経済成長があったことを知らない世代にとっては、「景気をよくする」と繰り返される大合唱が、若い世代にはどのように響いているのだろうか。恐らく、自然現象についても、今の現実が当たり前と感じているのだろうか。

人間の社会のみならず、自然の現象に関心を寄せてきた者にとっては、私たちを取り巻く現在のこうこのあたりの感覚は、共有できるのではないだろうか。
そのあたりのことをもっと広く捉えると、今は「混沌としている」ということになるのだろうか。

では、混沌を生きることは、何も生み出さないのだろうか。

バタフライ効果は、気象学者のエドワード・ローレンツの講演(「ブラジルの1匹の蝶の羽ばたきはテキサスで竜巻を引き起こすか?」)に由来すると考えられている。結論めいたことを云うと、人間には確定できないが、混沌は新しい発見を生み出してきた。そして、新しい生き方も…。
話は飛ぶようであるが、「ハチドリのひとしずく」(光文社)という在り方に、共感が広がっている。

私たちが、日本列島の内外で経験してきたことは、環境の「荒々しさ」と、その中を生きる生き者の「優しさ」とでもいうべき在り方でしょうか。

「優しい」というのは、「身がやせ細るような思いである。ひけめを感じる。」(デジタル大辞泉)という意味があるそうである。古(いにしえ)には、このような意味も実感していたらしい…。

とすれば、私たちは、混沌のように思える環境(自分の外と内も)を生きることは、世界の発見と共に、歴史の発見に通じているように思われる。 

8月、人間の歩みにより、失われた者を記念する時でありたい
――過ちを繰り返さないために。

一人ひとりを 加藤久幸牧師

ファイル 862-1.jpg「交わり」の編集・印刷は、いつもぎりぎりで作業が成されています。とりわけ、私がもたもたしているので、編集後記が先にできてしまう?こともあります。今回は、編集後記に触発されて、「牧師室の窓」を書きます。

 阪神淡路大震災後、兵庫を訪ねた時、震災で亡くなった方の一人一人の死を記録しているという活動をしている人に出会った。その時、「6,434人が亡くなったというのではなく、一人一人の死が6,434回(6,434人)あった」というお話を聞きました。全体で〇人という数に関心あることと、一人一人を覚えて〇人という取り組みは、同じように見えるが、その取り組みは違うと思います。(当時、一人の死を聞き取ることはその人の人生を聞き取ること、と聴いた記憶もあります。)

今回の紙折り等の作業でも、「千、万、十万…折ったとしても、受け取る人にとっては一枚(一部)なのだ」という合言葉で、取り組みました。
そういう取り組みを経て、編集者も「編集後記」のように感じたのかと、共感しました。

この1年10カ月、私(たち)は「一人ひとりを大切にする」という取り組みを学ばされてきたと、思います。その歩みは、大変なように思えますが、とても大切なことだ、と。また、その場に居合わせる人は小さく弱いように思えても、その場を生きる人に臨む力(祝福)は大きく強い、と。

この間、いろんな場面で、また「報告書」でも、私(たち)が学んだことを、伝えてきました。その中で十分に表現できない出来事として、「交わりの中の一人」という課題があります。

上記に述べた「その場を生きる人に臨む力(祝福)」を感じることができない、見い出せない時…。  
復興感謝礼拝の招きの言葉(詩篇127編1編)は、「家を建てる」「町を守る」取り組みにおいて、仲間や協力者を見い出せず、自らも「むなしい」と感ずる、その一人に神が(一人)熱情的に臨む、という、そういう事態を示しているのではないか。

神理解においても様々学んだ時でもあった。感謝。

定期検診 加藤久幸牧師

ファイル 853-1.jpg今月(2017年5月)10日水曜日、筑波大学付属病院で定期検診を受けました。
 
思えば、2015年3月8日に地区総会会場から救急車で運ばれ、緊急入院をしました。脳梗塞との診断を受け、その年の5月に左の椎骨動脈にステントをいれる手術を受けました。それ以来、半年毎の検診を受けていましたが、今回、「経過は良好のようなので、今後は年一回の検診にしましょう」と、診断されました。
 
最近、久しぶりに会う方々から「お元気そうで良かったです。あの頃は…。」と言われることが、度々あります。発症、半年後の水害被害、この2年間「あの頃…」と言われても、自分では思い出せないことやわからないことが、たくさんあります。その人の様・姿は、他の人が判断できること、最終的には神さまの評価によってしかわからないものだと思います。
 
とは云うものの、水害復興、病気治療も含め、ようやく一段落を迎えつつあるのは、確かなのでしょう。

そうは言いつつも、発症時ほどでは当然ないけれど、疲れると、思考・発語が滑らかではなくなり、体の左半分に少し麻痺を感じ、バランスを崩しやすい、疲れやすいなど、気になることがあります。昨年の園の運動会では、「今は走れないので、職員競技ではご配慮を!」と言わざるを得ない事態もありました。

そういう気になることは、前からでしょう、加齢によるもの、気にし過ぎでは? 誰もが、との声も、一方では聞こえてきます。

しかしながら、この2年間、全ては仕事優先で、自らの体や魂によいことを取り組んでこなかったことは、確かなのでしょう。病気のみならず復興も、病気の治療、災害の復旧だけでなく、いただいている恵みや命をどう受けとめ生かされていくかという歩みが必要なのでしょう。

そういう意味では、損なわれること、弱ること、時間が限られていること、共生が難しいことなど、様々に学んだことは、今後の歩みのために大きな意味があったと思います。復興の第2ステージが始まると感じています。今年、婦人会と共に、私も「コヘレトの言葉」を深く学びたいと思います。

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