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東日本大震災 7年目が始まる   加藤久幸牧師

2011年4月13日(火)小西望現.東北教区総会議長(当時.財務部委員長)から、電話が入った。坂東市にあるワゴン車を被災者支援センター・エマオのために購入してほしいという内容だった。結果として、納車も依頼され、私も含め4名の者が、4月27日(木)仙台・エマオに向かった。この春、仙台・エマオの体制&活動が大きく変わろうとする時、また、教会人としてレント・イースターのこの時期、当時の「小さなエマオへの旅」を振り返り共有することは意味があるだろうと思った。参考までに、当時の私の原稿「エマオへ、そして、エマオから」(関東教区被災支援ニュース№07[5月8日発行]所収)を、教会掲示板に掲載しておく。
 この時から、ワゴン車は教団所有となったが、
名義は私のままであった。毎年4月になると、保険や税のことがあり、エマオと連絡を取り、小さなお手伝いをするようになった。
 この春、エマオから、ワゴン車はエルピス熊本で用いる方向で検討中であると、連絡が入った。
走行距離10万k㎞強にはなっているらしいが、ワゴン車の数奇な運命を思わずにはおれなかった。昨夕(3月17日)連絡があり、結果として
廃車手続きをとることになったという。小西牧師の仙台北教会で一時保管し、いずれ適切な団体に譲渡の道を探ることになるのだろう・・。
 車つながりでいえば、二葉こども園の車両のことは割愛するが、2015年9月の「関東・東北豪雨」の後、石橋秀雄教団議長から「園の使わない車を、牧師用として自由に使ってよい」と、車の提供を受けた。この車もよく活躍してくれて、役目を終えるころ、ある事情があり、廃車となった。
現在、私は、教会がこども園が使う前提で購入した公用車を、使わせてもらっている。そして、これらの財源は、全て献品・献金によるものである。自家用車の購入はいつになるのだろうか? 震災から6年、一区切りをつける時であるが、今もあの時のペースで動かざるをえない日常もある。 
 この間、支援してくれたり共に働いた人間はもちろんであるが、そこに共にあった建物や様々な物に、前にも増して愛着が増えたかもしれない。
感傷に浸る時は未だなく、新しい7年目が始まる。

牧師の仕事ー働き方

ファイル 828-1.jpg前々回のこのコラムに、牧師の仕事について書きました。とりわけ、牧師としての私の思い(姿勢)を書きました。今回は、牧師の仕事、その働き方(動き方)について、書こうと思います。

牧師の働きの第一に、人々を神の前に導く、ということがあります。それは、神の存在・働きを感じる「世界」に、人を導くということです。人々は個性的なので、その導きも個別対応的な要素が出てきます。
 
私が牧師になろうと考えた時、私は「牧師の仕事はコーチのような仕事」とイメージしました。
私自身は野球のプレーは苦手ですが、その野球に譬えていうと、「牧師になるということは、ピッチャーや3番バッターになる、自らがプレーヤーになる」ということではないと、考えました。

実際、ゲームでプレーするのはプレーヤーであって、コーチではありません。コーチは、プレーヤーが「自らの個性を生かして」十分プレーできるように、援助し指導することです。しかし、実際、プレーヤーが変化成長しゲームで活躍するというのは、とても大変なことです。もし、プレーヤーが変わるのが困難であれば、良きコーチは、自らが(指導法なども含め)変わることを選択するでしょう。

かなり機能的な側面から話をしましたが、牧師という働きも、同様です。不変ではないのです。
プレーヤーがゲームに出るかどうかは、本人にかかっています。同様に、人が神の前に立つかどうかは、本人にかかっています…。否、神が成されなければ、その出来事は起こらないのです…。私たちにできるのは、神に触れる「世界」の門口にまで、共に歩むだけです。

それまでは、キリスト教の世界などは、永遠不変を語り伝えるものと、想っていました。しかし、相手に応じて、自分のアイデンティティを失わず、自分を変えていく牧師(像)、そして、彼らを導く「(変化もいとわないと思える)神」理解に、衝撃を覚えたものでした。この出会いを通して、私は「自由な」牧師への歩みを始めました。

譬えなので細部まではフィットしていないと思いますが、牧師の働き方(動き方)の基本を、今もこんなふうに考えています。さて、実際は?

平和の道を         加藤久幸     

ファイル 817-1.jpg1月20日正午(日本時間21日午前2時)、トランプ氏が第45代米国大統領に就任した。これに関連した報道が、日本でも連日成されている。私も
その一つを紹介する(毎日新聞1月21日「余録」から)。

「『現在バイアス』の存在を指摘したのは、2002年にノーベル経済学賞を受賞した米国のダニエル・カーネマン博士だ。将来の長期的な利益と現在の短期的な利益をはかりにかけると、将来の利益を軽く、現在の利益を重く感じる心の動きをいうそうだ

▲健康維持のためにはダイエットが必要だが、目の前のケーキを我慢できない。

…▲『人間は自己の利益を最大化させようと合理的に行動する』というのが経済学の前提だが、カーネマン博士はそれを否定したわけだ。要するに人の心は弱い。であれば、『あなたの今の利益を尊重します』と現在バイアスに訴えれば、大衆の共感や支持も集めやすくなる。大衆迎合主義(ポピュリズム)である。…どうやら、民主主義とポピュリズムは紙一重らしい。

▲通常国会がきのう招集された。国民の代表が議論を重ね、民主主義を実践する場である。トランプ新政権をにらんだ外交や天皇陛下退位の問題、社会保障改革など課題は山積している

▲まずは、5年連続で過去最大規模に膨らんだ新年度予算案が俎上(そじょう)に載る。財源の3分の1は、将来世代にツケ回しにする借金である。目先の利益をばらまき、国民の現在バイアスに訴えるポピュリズムの出る幕はないはずだ。そんな企てに待ったをかける健全な民主主義を見てみたい。」

引用が長くなりました。今回は、牧師の仕事について書こうと考えていました。11月に「どういう思い(姿勢)で」を書きましたが、その続編を書こうと願っていました。しかし、すでに紙幅が尽きました。ただ、引用文が指摘する内容は、教会の事柄についても、牧師の仕事にも当てはまるのだと思います。自分のことと他者(神を含む)のこと、教会と地域、教会の長期的なことと短期的なこと、そして、課題は山積していること等。
 
余録氏の「健全な民主主義」にも共感するが、教会人としては、主の御国を待ち望みつつ、平和の道を、この年も歩み続けたいと、願っています。

「背中に主のみこころ」を感じながら   加藤久幸

ファイル 812-1.jpg昨年の水害以来、ひたすら働くことがさらに増えました。身近なこともそうですが、先行きが見えないのは、世界も同じなのかもしれません。聖書に触れた頃、「私たちの未来は、背中(背後)から、目の前に出て来て、現実となる」というような話を聞いたことを、想い出します。
 
牧師の仕事については、このコラムにも何度か書きました。今回は、どういう思い(姿勢)で、その務めをしているかを書いてみたいと思います。
 
いろんな表現ができると思いますが、私が高校時代に漕いでいたボートに、譬えてみましょう。
 湖や公園の池にある、手漕ぎのボートを想像してみてください。漕ぎ手は、小舟の進む方向と、反対向きに座ります。乗せてもらう人は、進む行く手が見える、船尾(舟の後ろ)に座ります。競技用ボートも、この乗船の位置関係は同じです。

私は体が小さいので、コックス(舵取り、舵手)もしました。舵取りは船尾に座ります。そして、遙か先のゴールを目指し、漕ぎ手を導き、舵を取ります。これに対して、漕ぎ手は、進行方向と反対に座り、ただひたすら漕ぎます。漕ぎ手には、自分たちが進んできた航跡は見えますが、ゴールは見えません。

私たちキリスト者は、ゴールがあることを信じています。しかし、いつ、どのように、フィニシュするかは、時が来なければわからないのです。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マルコ8章34節)深夜や夜明け前の時には、イエスの十字架を想うことが増えました。

以前は「課題を背負って」と力んだ感じでしたが、今は「背中にゴールを」でしょうか。いえ、「背中に主のみこころ」を感じながら、進みたいという感触です。こうして、十字架が慰めと恵みになり、賛美歌418番が愛唱歌となりました。
ボートのフィニシュの時、舵取りから「ありがとう」と声がかかります。「漕ぎをやめてよい」という意味ですが、これも様々考えさせられます。そして、ボートも教会もいつも風が吹いています。

「魂の熱意」という理念            加藤久幸

ファイル 798-1.jpg11月19日(土)、毎日新聞のコラム「危機の真相」の「アメリカの魂いずこへ」に、興味を覚えた。コラム氏は同志社大学の経済学の浜教授である。コラムはこう始まる。

「今回のテーマは…次期アメリカ大統領である。…まずは、経営運営と外交方針に世界の関心が集まっている。それは当然だ」と述べ、これらに浜氏なりに解説を付けた後、次のように展開している。

「ところで、筆者が今、トランプのアメリカについて最も気掛かりな点は、実をいえば上記のような『いつか来た道』的経済的問題ではない。もとより、エコノミストとして『かつてあったこと』にしっかり目を光らせておく必要がある。だが、それはそれとして、アメリカの魂が心配だ。」

この後、アメリカに今起こっている精神的荒廃に触れた後、フィッツジェラルド(1920年代のアメリカを代表する小説家の一人)の言葉を紹介している。その言葉は、“a willingness of the heart”である(浜氏は「魂の熱意」という訳を提案している)。

「フィッツジェラルドは、アメリカとは国でも民族でもない、アメリカとは『魂の熱意』という理念なのだ、といっている。魂の熱意。あるいは魂の決意と言ってもいいかもしれない。そのような理念を具現しようとしているのがアメリカという存在だ。そのはずだと思いながらも疑念を抱く。そんな人物像フィッツジェラルドは描いている。」 

この解説後、浜氏はコラムをこう結んでいる。
「アメリカは理念だ。その理念とは魂の熱意なり。魂の決意なり。そのように言えることは、素晴らしい。寄せ木細工のアメリカの建国史を思えば、高き理念は、まさしく求心力の心臓部、その魂と言えるだろう。それがここまで脅かされたことが、かつてあったことか。アメリカの魂のために、たゆまず祈り続けたい。」

日本を含め、世界のあちこちに、「いつか来た道」の諸層が見られる。疑念が蒔かれ、広がっている…。日本は、新しい理念を「日本国憲法」で表現し、具現化しようとした…。日本の教会では何があり、今は…。私たちの心臓部である、魂の再生・復活のため、呼吸のように祈り続けたい。

園庭を育む           加藤久幸牧師

ファイル 786-1.jpg少し前になりますが、7月15日に、二葉こども園で、園庭研究所の石田佳織さんをお迎えして、園内研修会を開催しました。
 
ご存知のように、かつて、園庭の真ん中には、
大きなケヤキがありました。いつか、木を植えたいねというのが、みんなの願いです。また、園舎新築後、園庭に新しい土を入れましたが、不具合が生じました。晴れると砂漠、雨だと泥沼のような状態になりました。これは、土質の問題も当然ありますが、草花がないことも影響しているでしょう。私たちは、新園舎を作る時に、園は「生活の場であり学びの場でありたい」と願いました。園庭も、単なる運動場ではなく、庭の要素も大切にしたいと考えました。
 
先の研修は、大変興味深いものでした。研修の前に、参加者が、次のような事前レポートを求められました。「〇幼児期~学童期の‟外”での体験(遊びや暮らし)で心に残っていることは何ですか? 〇それは、心身の成長・学びにどうつながったと思いますか? 〇その思い出の体験は、どのような環境でしたか。」 研修当日は、園庭の要素について学び、グループ毎に、園庭図面にトレーニングペーパーを用いて、自分たちの考える要素や想いを、載せていく(形にしていく)というものでした。大切なことですが、発表もあり、研修後、しっかり、ふりかえりシートもありました。
 
私の個人的な感想を一つ。私の親水体験と興味は、小学校高学年~高校までの川や海での体験と思っていたのですが、それらを遥かに超えて、源流は幼児期~小学校低学年の小川や池などでの体験にあったと、想い起こしたことです。
 
もう一つ、9月11日の教会アワーで、私の伊勢湾台風(1959年・昭和34年9月)の体験を、ふいに想い出しました。4歳児の和歌山での体験ですが、避難場所から自宅に帰った時の被災状況のすさまじさ、その後の防災や高度経済成長政策で私の住む町や川や海、世界は大きく変わったことを、鮮やかに、次から次へと想い出しました。
 
自然との関わりをどう思うかによって、環境も大きく姿を変えます。こども(人)が育つように、私たちの園(庭)も、地域も、命を育む場として、必要な時間をかけ、育っていきたいものです。

牧師室の窓 加藤久幸牧師

ファイル 776-1.jpg8月22日(月)から、牧師館の解体工事が始まります。
普段、限られた時間の中で、たくさんの仕事を優先している関係上、どうしても、身の周りの整理整頓が残り続けています。いえ、もともと、文書管理などが苦手なのでしょう…。

教会やこども園のことも含めて言えば、‟引っ越し疲れ”があると思います。もちろん、普段の仕事があってのことなので、こちらの方も、“あれもしなければ、これもしなければ…”と思うのですが、片づけなども残り続けています。

今回、個人の片づけと向き合って、改めて、感じたことがあります。1年前、ボランティアの方々が箱詰めしてくださった物を、開封しています。まだ湿気のある物やかび臭い物も含まれます。これらの整理を、黙々としてくださったボランティアの働きを想い返しながら、作業をしています。

もう一つ、東日本大震災の時に、私は、‟原発で重大事件が起きたら、すぐ逃げなさい”と、話しました。津波の襲来と同様に、原発事故が起こり‟いきなり”の避難命令がでました。体一つで逃げ延びた方々が、その後、一時帰宅が認められ、袋一杯分の持ち物を持ち帰る、そのような光景を見聞きしました。あの時以来、私の中には、人生の中で‟携えるもの”‟なくてはならないもの"は何かを、改めて考えるようになりました。

本当に感傷にひたる暇などはないのですが、こういう歩みも、正直なところ‟きついなあ"というのが、実感です。そんなことを想いながら、作業をしています。

教会・こども園・牧師館が浸水した、9月11日(日)がめぐってきます。今年は日曜日なので、水海道教会では、その日を‟記念礼拝“として捧げようと思います。礼拝後は、教会アワーで、みんなで、この一年の歩みを分かち合いたいと、思います。

今、被災後‟間もない“復興の歩みをされている熊本・九州の方々を想います。困難の中にも、各々の歩みを見い出していけるように、また、‟寄り添う”ボランティアの方々、祈りを寄せている多くの方々を覚えます。

すべての人に、主の祝福と導きが親しくありますように。

大切なものは…           加藤久幸牧師 

先日、財布を置き忘れるという事件を、起こしました。新幹線に乗っていて、終点の東京まで行かないで、予定を変更して、上野で慌しく下車しました。ホームに降りて、荷物を整理した時、財布がないことに、気がつきました。

上野の改札で、自分の座席を告げ確認してほしいと、お願いしました。すると(連絡はするが難しいという雰囲気で) 「ここでは確認できないので、直接終点の東京駅に行ってほしい」との応答。暫く待っても、連絡している素振りが見えないので、連絡のお願いをして、東京駅に向かいました。

新幹線はすでに折り返し運転で発車をしており、それらしい遺失物は届いていないとのこと…。スイカ(共通乗車カード)と小銭は持っていたので、「今回は(暫くは)出てこない」と判断し家路に着きました。

水海道に帰着後、公に遺失物の届けをすることを判断し、関係方面に連絡を入れ始めました。財布の中には、銀行カード、クレジットカード、免許証、保険証、ETCカード、病院診察カード等が入っていました。

JR(遺失物関係)、警察、銀行、クレジット会社など。数社連絡を入れるだけで1時間半以上は過ぎ、他社の窓口受付時間はすでに終了していました。

予想はしていたのですが、電話(連絡)が通じない、各担当に何度も回される、その都度同じ事を聞かれる、こちらが聞いていること(必要書類等の確認)の応答がない等。

私が余裕なく動いていて、こういうことが起こったのです。この後のことは、これ以上ミスをしないように、確実な情報を得て進めようと思いました。とは言うものの、全てのカードを破棄し、新たにカードを作り直す…。その際、本人確認とみなしてくれる書類を確かめながら…(各所でマイナンバーをまだ使いたくないので…)しかも、窓口に行く時には、徒歩・自転車、知人に車に乗せてもらうなどしながら…。その時間が惜しい…。 

病気・被災してから、自分の持てる(持つ)物、自分のできることを、考えます。同様に、今回対応してくれた会社・組織等のあり方も考えました。大切な物は、先ず整理をする、一箇所にまとめておく、危険回避のため分散管理する…。

自覚しつつも、失くした「私」…。いずれ、私の引越しも来ます。今回の事件はその備えだったのでしょうか。

個性の尊重と公平性の確保       加藤久幸

教区総会が終わり、一つの区切りがつき、また、新たな一年が本格的に始まる、そんな思いでおります。今回は、個(性)の尊重と公平性の確保(担保)という内容について、最近の想いを記します。
*、
最初は、なお余震が続く熊本地震で、障がいのある人や家族の避難をめぐる課題があるという、報道についてです。相次ぐ災害避難の報道で、「福祉避難所」の存在が知られるようになり、また、その現場での課題も、伝えられています。多くの課題がありますが、非常時において(こそ)、障がいのある人・高齢者・こどもの尊重が担保される法整備や実際の具体的な配慮が整えられることを、願わずにはおれません。

次に、毎日新聞の5月20日の「金言」というコラムの記事を紹介します。オバマ米大統領の広島訪問に触れ、こう記しています。

「いまは広島に焦点が集まっているが、外国首脳の慰霊という点では日本は不規則な状態にある…。外国の首脳が、訪問した国の戦没者記念碑や無名戦士の墓など、その国のために命をささげた人々を祭った場所を訪れ、頭を下げるのは重要で厳かな外交儀式で、相互慣例となっている。…しかし外国首脳が来日しても、相互慣例となっている慰霊が行われない。この慰霊の非対称性は、A級戦犯が合祀されている靖国神社参拝に外国首脳は行けず、かといってそれを代替する施設を日本政府が用意していないからだ。A級戦犯合祀前には靖国神社を訪れた外国首脳はいたようだが、合祀以降、足を踏み入れる首脳はいない。」 

私の記憶では、同じように、合祀以後天皇も靖国に足を踏み入れていない。

私たちは、個性があり、各々事情が、あります。行きたくても(避難したくても)行けない(避難できない)、そういう「障がい」がある時には、それを取り除く・軽減する取り組みが必要でしょう

(基地が集中する沖縄で頻発する事件にも、心が悼みます)。「個の尊重と公平性の確保」の言葉の説明はしなかったが、この課題は、教会においても、各々の関わりにおいても、身近なものです。

憲法の前文にも謳われているように、互いに「平和のうちに生存する」を求めていきましょう。

「散らされる」 加藤久幸

前にも紹介したと思いますが、
私の好きな児童文学に、ル=グウィン作「帰還 ゲド戦記 最後の書」(岩波書店)があります。
 
青年期、このゲド戦記のシリーズ(1~3巻)に触れた時、青年・壮年の冒険(活躍)物語として興味深い印象をもちました。しかし、それ以上に、のめりこむことはありませんでした。それから約20年経って、この「最後の書」が出た時に、ある衝撃が走りました。それは、主人公のゲドのそれまでの人生の様相を変える姿が描かれていたからです。もちろん、その出会いの時には、私も青年ではなく、ある年齢に達していたことが関連していたかもしれません。

この「最後の書」の本の帯には、次のような一文があります。「平和と秩序を回復するため全力を出し切ったゲドは、故郷のゴント島に帰る。心身ともに衰えた初老のゲドに、思いがけない女性との再会が待っていた」
 
これはファンタジ-ですが、今改めて、今の私に響く内容があるように想います。

話は飛びますが、今回の水害被害と復興を経て、やはり、「ノアの洪水物語」が、私の心に迫ってきます。そして、詳細は省きますが、ノアの洪水の物語の後に、バベルの塔の物語が続いていることに、今まで気づかなかった意味があるように感じています。荒削りの印象でいうと、「洪水」の後も、人間は、他の存在を顧みず、自分の活躍・挑戦物語を繰り返し行うのか、と。
 
私が、今までバベルの物語を読む時には、初老など、弱い存在は視野には入っていなかったのです。実際、バベルの世界では、強者だけが生き残るのかもしれません。
 
「散らされる」ことは、私たちは否定的に考えますが、聖書ではそうは考えていないように想います。他の存在との出会いがあり、共生の関わりとなる平らな世界を示しているのかもしれません。「全地に散らす」とは「全地への祝福」を、意味しているように思います。
 
初老の「ゲド」が、人の世界に散らされていく。
それは過酷な現実だなと思っていましたが、それは祝福の出来事なのでしょう。時が与えられるなら、改めて「最後の書」を味読したいものです。

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