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情報

ファイル 879-1.jpg9月15日(金)朝7時にJアラートが「ミサイル発射」を告げました。その後、すぐさま常総市の幾つかの学校は「登校を控え、自宅待機」という緊急メールを発信しました。
 
二葉こども園は7時30分からの保育開始です。送ってきた保護者からも、電話による問い合わせも、いつもより多くありました。対応する職員に「通常通り」と伝えることを指示し、7時55分の朝会で「園としてはHPの通知も緊急メールも発信しない」ことを確認し、当日の業務・歩みが始まりました。
 
時間帯が通勤・登校(園)と重なっていたので、各ご家庭は判断・対応に追われたことと思います。(7時50分過ぎに「落ち着いて登校を開始するように」との防災放送が流れました…。)
 
教会では、9月10日(日)の教会アワーで「緊急時のこと」を話題にしました。そこでも多少触れましたが、最近の相次ぐ「緊急情報」に触れて思うことを、短く記します。
 
NHKの報道で、「相次ぐ巨大ハリケーンの襲来により、今までの気象予測システムでは対応できず、アメリカの気象業者ではハリケーンのコース予測等に膨大なデータを処理する人工知能の判断の活用が開始されている」と、報じていました。
 
正確な情報が適切に伝えられることは、大切なことです(かつての戦時のように、気象情報が軍事機密で、民間には知らされず、災害時に甚大な被害が起こることはあってはならないことです。)
 
しかしながら、国・市町村・民間・人工知能が判断して発信する情報も、最終的には、個人(その人)が受けとめ判断して行動することになります。

現在は、これらの情報が豊富に発信されています(情報格差の課題はありますが…)。情報量が多ければ、判断の困難さもあります。情報が溢れ、個人の「判断」「行動」は大丈夫か?と、問われています。あの「直ちに自分の命を守る行動をとってください」というメッセージは、そのような意味を持っているでしょう。そして、現在は、民間も個人も、受け手だけでなく、発信者でもあります。
 
個別の緊急時に対しても、今の時代をどう生きるかという課題に対しても、一人ひとり、各教会が、「受け手」「応答者」という主体でもあるのです。

混沌を生きる                 加藤久幸牧師

最近の日本列島に起こる自然現象に触れて、「今までとは違う」と感ずるのは、歳を重ねてきたせいか。

――かつて日本にも高度経済成長があったことを知らない世代にとっては、「景気をよくする」と繰り返される大合唱が、若い世代にはどのように響いているのだろうか。恐らく、自然現象についても、今の現実が当たり前と感じているのだろうか。

人間の社会のみならず、自然の現象に関心を寄せてきた者にとっては、私たちを取り巻く現在のこうこのあたりの感覚は、共有できるのではないだろうか。
そのあたりのことをもっと広く捉えると、今は「混沌としている」ということになるのだろうか。

では、混沌を生きることは、何も生み出さないのだろうか。

バタフライ効果は、気象学者のエドワード・ローレンツの講演(「ブラジルの1匹の蝶の羽ばたきはテキサスで竜巻を引き起こすか?」)に由来すると考えられている。結論めいたことを云うと、人間には確定できないが、混沌は新しい発見を生み出してきた。そして、新しい生き方も…。
話は飛ぶようであるが、「ハチドリのひとしずく」(光文社)という在り方に、共感が広がっている。

私たちが、日本列島の内外で経験してきたことは、環境の「荒々しさ」と、その中を生きる生き者の「優しさ」とでもいうべき在り方でしょうか。

「優しい」というのは、「身がやせ細るような思いである。ひけめを感じる。」(デジタル大辞泉)という意味があるそうである。古(いにしえ)には、このような意味も実感していたらしい…。

とすれば、私たちは、混沌のように思える環境(自分の外と内も)を生きることは、世界の発見と共に、歴史の発見に通じているように思われる。 

8月、人間の歩みにより、失われた者を記念する時でありたい
――過ちを繰り返さないために。

一人ひとりを 加藤久幸牧師

ファイル 862-1.jpg「交わり」の編集・印刷は、いつもぎりぎりで作業が成されています。とりわけ、私がもたもたしているので、編集後記が先にできてしまう?こともあります。今回は、編集後記に触発されて、「牧師室の窓」を書きます。

 阪神淡路大震災後、兵庫を訪ねた時、震災で亡くなった方の一人一人の死を記録しているという活動をしている人に出会った。その時、「6,434人が亡くなったというのではなく、一人一人の死が6,434回(6,434人)あった」というお話を聞きました。全体で〇人という数に関心あることと、一人一人を覚えて〇人という取り組みは、同じように見えるが、その取り組みは違うと思います。(当時、一人の死を聞き取ることはその人の人生を聞き取ること、と聴いた記憶もあります。)

今回の紙折り等の作業でも、「千、万、十万…折ったとしても、受け取る人にとっては一枚(一部)なのだ」という合言葉で、取り組みました。
そういう取り組みを経て、編集者も「編集後記」のように感じたのかと、共感しました。

この1年10カ月、私(たち)は「一人ひとりを大切にする」という取り組みを学ばされてきたと、思います。その歩みは、大変なように思えますが、とても大切なことだ、と。また、その場に居合わせる人は小さく弱いように思えても、その場を生きる人に臨む力(祝福)は大きく強い、と。

この間、いろんな場面で、また「報告書」でも、私(たち)が学んだことを、伝えてきました。その中で十分に表現できない出来事として、「交わりの中の一人」という課題があります。

上記に述べた「その場を生きる人に臨む力(祝福)」を感じることができない、見い出せない時…。  
復興感謝礼拝の招きの言葉(詩篇127編1編)は、「家を建てる」「町を守る」取り組みにおいて、仲間や協力者を見い出せず、自らも「むなしい」と感ずる、その一人に神が(一人)熱情的に臨む、という、そういう事態を示しているのではないか。

神理解においても様々学んだ時でもあった。感謝。

定期検診 加藤久幸牧師

ファイル 853-1.jpg今月(2017年5月)10日水曜日、筑波大学付属病院で定期検診を受けました。
 
思えば、2015年3月8日に地区総会会場から救急車で運ばれ、緊急入院をしました。脳梗塞との診断を受け、その年の5月に左の椎骨動脈にステントをいれる手術を受けました。それ以来、半年毎の検診を受けていましたが、今回、「経過は良好のようなので、今後は年一回の検診にしましょう」と、診断されました。
 
最近、久しぶりに会う方々から「お元気そうで良かったです。あの頃は…。」と言われることが、度々あります。発症、半年後の水害被害、この2年間「あの頃…」と言われても、自分では思い出せないことやわからないことが、たくさんあります。その人の様・姿は、他の人が判断できること、最終的には神さまの評価によってしかわからないものだと思います。
 
とは云うものの、水害復興、病気治療も含め、ようやく一段落を迎えつつあるのは、確かなのでしょう。

そうは言いつつも、発症時ほどでは当然ないけれど、疲れると、思考・発語が滑らかではなくなり、体の左半分に少し麻痺を感じ、バランスを崩しやすい、疲れやすいなど、気になることがあります。昨年の園の運動会では、「今は走れないので、職員競技ではご配慮を!」と言わざるを得ない事態もありました。

そういう気になることは、前からでしょう、加齢によるもの、気にし過ぎでは? 誰もが、との声も、一方では聞こえてきます。

しかしながら、この2年間、全ては仕事優先で、自らの体や魂によいことを取り組んでこなかったことは、確かなのでしょう。病気のみならず復興も、病気の治療、災害の復旧だけでなく、いただいている恵みや命をどう受けとめ生かされていくかという歩みが必要なのでしょう。

そういう意味では、損なわれること、弱ること、時間が限られていること、共生が難しいことなど、様々に学んだことは、今後の歩みのために大きな意味があったと思います。復興の第2ステージが始まると感じています。今年、婦人会と共に、私も「コヘレトの言葉」を深く学びたいと思います。

「3.11はカイロスだった」     加藤久幸牧師

ファイル 843-1.jpg私たちの教会もお世話になった、仙台エマオの佐藤真史さんが、任を終えて、今春、九州の教会に転任されました。今回の本コラムは、思いがけず手元に届いた「宣教東北」の彼の文章を引用転載することにいたします。ご了承ください。
 「3・11は私たちにとって『カイロス』だった。2012年春に仙台に赴任して、初めて出席した宮城北地区の牧師会で聴いた言葉です。ギリシャ語で時を表す言葉として『カイロス』は『何ものにも代えがたい決定的な時』を意味します。 以来5年間、被災者支援センター・エマオでコーディネーターとして働き、被災された方たちと深い出会いを与えられました。いまこの言葉がますます確かなものになっています。地震・津波・放射能汚染によって被害を被った方たちの人生にとって、3・11が『何ものにも代えがたい決定的な時=カイロス』だったのだと。そして、3・11というカイロスが過去形ではなく、6年経った今も現在進行形なのだと。▶ イエスはガリラヤへ行き、『時(カイロス)は満ち、神の国は近づいた。回心して福音を信じなさい』とまず言われました。『私たちの日々の歩みの中に〈神の国〉はもう来ている。土に蒔かれた種が、人の知らないうちに大地によって育てられているように、神さまが〈いま・ここに〉人知れず生きて働かれている。何ものにも代えがたい決定的な神の時(カイロス)がもうここに来ている。だからこそ私たちは、神さまへと方向転換し、福音の中で、共に歩んでいこう』と言っているのです。」 
 そして、佐藤さんは、ある被災者Sさんの声を紹介しています。仙台エマオも教団の仙台での活動も、この〈一人〉との出会いがなければ始まらなかったと、私(筆者)は想います。
 「この世に生きている人で、絶対自然災害に遭わないとは誰も言い切れないということです。私がそうでしたから。万が一災害にあったら、周りの人の気持ち、相手の気持ちになってほしいということです。自分が辛ければ周りも辛いんだいうこと。相手の気持ちを忘れないでほしいということです。」
 エマオ関係者の上に、主の祝福を祈ります。
(*「宣教東北」は教会掲示板に貼っておきます。)

東日本大震災 7年目が始まる   加藤久幸牧師

2011年4月13日(火)小西望現.東北教区総会議長(当時.財務部委員長)から、電話が入った。坂東市にあるワゴン車を被災者支援センター・エマオのために購入してほしいという内容だった。結果として、納車も依頼され、私も含め4名の者が、4月27日(木)仙台・エマオに向かった。この春、仙台・エマオの体制&活動が大きく変わろうとする時、また、教会人としてレント・イースターのこの時期、当時の「小さなエマオへの旅」を振り返り共有することは意味があるだろうと思った。参考までに、当時の私の原稿「エマオへ、そして、エマオから」(関東教区被災支援ニュース№07[5月8日発行]所収)を、教会掲示板に掲載しておく。
 この時から、ワゴン車は教団所有となったが、
名義は私のままであった。毎年4月になると、保険や税のことがあり、エマオと連絡を取り、小さなお手伝いをするようになった。
 この春、エマオから、ワゴン車はエルピス熊本で用いる方向で検討中であると、連絡が入った。
走行距離10万k㎞強にはなっているらしいが、ワゴン車の数奇な運命を思わずにはおれなかった。昨夕(3月17日)連絡があり、結果として
廃車手続きをとることになったという。小西牧師の仙台北教会で一時保管し、いずれ適切な団体に譲渡の道を探ることになるのだろう・・。
 車つながりでいえば、二葉こども園の車両のことは割愛するが、2015年9月の「関東・東北豪雨」の後、石橋秀雄教団議長から「園の使わない車を、牧師用として自由に使ってよい」と、車の提供を受けた。この車もよく活躍してくれて、役目を終えるころ、ある事情があり、廃車となった。
現在、私は、教会がこども園が使う前提で購入した公用車を、使わせてもらっている。そして、これらの財源は、全て献品・献金によるものである。自家用車の購入はいつになるのだろうか? 震災から6年、一区切りをつける時であるが、今もあの時のペースで動かざるをえない日常もある。 
 この間、支援してくれたり共に働いた人間はもちろんであるが、そこに共にあった建物や様々な物に、前にも増して愛着が増えたかもしれない。
感傷に浸る時は未だなく、新しい7年目が始まる。

牧師の仕事ー働き方

ファイル 828-1.jpg前々回のこのコラムに、牧師の仕事について書きました。とりわけ、牧師としての私の思い(姿勢)を書きました。今回は、牧師の仕事、その働き方(動き方)について、書こうと思います。

牧師の働きの第一に、人々を神の前に導く、ということがあります。それは、神の存在・働きを感じる「世界」に、人を導くということです。人々は個性的なので、その導きも個別対応的な要素が出てきます。
 
私が牧師になろうと考えた時、私は「牧師の仕事はコーチのような仕事」とイメージしました。
私自身は野球のプレーは苦手ですが、その野球に譬えていうと、「牧師になるということは、ピッチャーや3番バッターになる、自らがプレーヤーになる」ということではないと、考えました。

実際、ゲームでプレーするのはプレーヤーであって、コーチではありません。コーチは、プレーヤーが「自らの個性を生かして」十分プレーできるように、援助し指導することです。しかし、実際、プレーヤーが変化成長しゲームで活躍するというのは、とても大変なことです。もし、プレーヤーが変わるのが困難であれば、良きコーチは、自らが(指導法なども含め)変わることを選択するでしょう。

かなり機能的な側面から話をしましたが、牧師という働きも、同様です。不変ではないのです。
プレーヤーがゲームに出るかどうかは、本人にかかっています。同様に、人が神の前に立つかどうかは、本人にかかっています…。否、神が成されなければ、その出来事は起こらないのです…。私たちにできるのは、神に触れる「世界」の門口にまで、共に歩むだけです。

それまでは、キリスト教の世界などは、永遠不変を語り伝えるものと、想っていました。しかし、相手に応じて、自分のアイデンティティを失わず、自分を変えていく牧師(像)、そして、彼らを導く「(変化もいとわないと思える)神」理解に、衝撃を覚えたものでした。この出会いを通して、私は「自由な」牧師への歩みを始めました。

譬えなので細部まではフィットしていないと思いますが、牧師の働き方(動き方)の基本を、今もこんなふうに考えています。さて、実際は?

平和の道を         加藤久幸     

ファイル 817-1.jpg1月20日正午(日本時間21日午前2時)、トランプ氏が第45代米国大統領に就任した。これに関連した報道が、日本でも連日成されている。私も
その一つを紹介する(毎日新聞1月21日「余録」から)。

「『現在バイアス』の存在を指摘したのは、2002年にノーベル経済学賞を受賞した米国のダニエル・カーネマン博士だ。将来の長期的な利益と現在の短期的な利益をはかりにかけると、将来の利益を軽く、現在の利益を重く感じる心の動きをいうそうだ

▲健康維持のためにはダイエットが必要だが、目の前のケーキを我慢できない。

…▲『人間は自己の利益を最大化させようと合理的に行動する』というのが経済学の前提だが、カーネマン博士はそれを否定したわけだ。要するに人の心は弱い。であれば、『あなたの今の利益を尊重します』と現在バイアスに訴えれば、大衆の共感や支持も集めやすくなる。大衆迎合主義(ポピュリズム)である。…どうやら、民主主義とポピュリズムは紙一重らしい。

▲通常国会がきのう招集された。国民の代表が議論を重ね、民主主義を実践する場である。トランプ新政権をにらんだ外交や天皇陛下退位の問題、社会保障改革など課題は山積している

▲まずは、5年連続で過去最大規模に膨らんだ新年度予算案が俎上(そじょう)に載る。財源の3分の1は、将来世代にツケ回しにする借金である。目先の利益をばらまき、国民の現在バイアスに訴えるポピュリズムの出る幕はないはずだ。そんな企てに待ったをかける健全な民主主義を見てみたい。」

引用が長くなりました。今回は、牧師の仕事について書こうと考えていました。11月に「どういう思い(姿勢)で」を書きましたが、その続編を書こうと願っていました。しかし、すでに紙幅が尽きました。ただ、引用文が指摘する内容は、教会の事柄についても、牧師の仕事にも当てはまるのだと思います。自分のことと他者(神を含む)のこと、教会と地域、教会の長期的なことと短期的なこと、そして、課題は山積していること等。
 
余録氏の「健全な民主主義」にも共感するが、教会人としては、主の御国を待ち望みつつ、平和の道を、この年も歩み続けたいと、願っています。

「背中に主のみこころ」を感じながら   加藤久幸

ファイル 812-1.jpg昨年の水害以来、ひたすら働くことがさらに増えました。身近なこともそうですが、先行きが見えないのは、世界も同じなのかもしれません。聖書に触れた頃、「私たちの未来は、背中(背後)から、目の前に出て来て、現実となる」というような話を聞いたことを、想い出します。
 
牧師の仕事については、このコラムにも何度か書きました。今回は、どういう思い(姿勢)で、その務めをしているかを書いてみたいと思います。
 
いろんな表現ができると思いますが、私が高校時代に漕いでいたボートに、譬えてみましょう。
 湖や公園の池にある、手漕ぎのボートを想像してみてください。漕ぎ手は、小舟の進む方向と、反対向きに座ります。乗せてもらう人は、進む行く手が見える、船尾(舟の後ろ)に座ります。競技用ボートも、この乗船の位置関係は同じです。

私は体が小さいので、コックス(舵取り、舵手)もしました。舵取りは船尾に座ります。そして、遙か先のゴールを目指し、漕ぎ手を導き、舵を取ります。これに対して、漕ぎ手は、進行方向と反対に座り、ただひたすら漕ぎます。漕ぎ手には、自分たちが進んできた航跡は見えますが、ゴールは見えません。

私たちキリスト者は、ゴールがあることを信じています。しかし、いつ、どのように、フィニシュするかは、時が来なければわからないのです。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マルコ8章34節)深夜や夜明け前の時には、イエスの十字架を想うことが増えました。

以前は「課題を背負って」と力んだ感じでしたが、今は「背中にゴールを」でしょうか。いえ、「背中に主のみこころ」を感じながら、進みたいという感触です。こうして、十字架が慰めと恵みになり、賛美歌418番が愛唱歌となりました。
ボートのフィニシュの時、舵取りから「ありがとう」と声がかかります。「漕ぎをやめてよい」という意味ですが、これも様々考えさせられます。そして、ボートも教会もいつも風が吹いています。

「魂の熱意」という理念            加藤久幸

ファイル 798-1.jpg11月19日(土)、毎日新聞のコラム「危機の真相」の「アメリカの魂いずこへ」に、興味を覚えた。コラム氏は同志社大学の経済学の浜教授である。コラムはこう始まる。

「今回のテーマは…次期アメリカ大統領である。…まずは、経営運営と外交方針に世界の関心が集まっている。それは当然だ」と述べ、これらに浜氏なりに解説を付けた後、次のように展開している。

「ところで、筆者が今、トランプのアメリカについて最も気掛かりな点は、実をいえば上記のような『いつか来た道』的経済的問題ではない。もとより、エコノミストとして『かつてあったこと』にしっかり目を光らせておく必要がある。だが、それはそれとして、アメリカの魂が心配だ。」

この後、アメリカに今起こっている精神的荒廃に触れた後、フィッツジェラルド(1920年代のアメリカを代表する小説家の一人)の言葉を紹介している。その言葉は、“a willingness of the heart”である(浜氏は「魂の熱意」という訳を提案している)。

「フィッツジェラルドは、アメリカとは国でも民族でもない、アメリカとは『魂の熱意』という理念なのだ、といっている。魂の熱意。あるいは魂の決意と言ってもいいかもしれない。そのような理念を具現しようとしているのがアメリカという存在だ。そのはずだと思いながらも疑念を抱く。そんな人物像フィッツジェラルドは描いている。」 

この解説後、浜氏はコラムをこう結んでいる。
「アメリカは理念だ。その理念とは魂の熱意なり。魂の決意なり。そのように言えることは、素晴らしい。寄せ木細工のアメリカの建国史を思えば、高き理念は、まさしく求心力の心臓部、その魂と言えるだろう。それがここまで脅かされたことが、かつてあったことか。アメリカの魂のために、たゆまず祈り続けたい。」

日本を含め、世界のあちこちに、「いつか来た道」の諸層が見られる。疑念が蒔かれ、広がっている…。日本は、新しい理念を「日本国憲法」で表現し、具現化しようとした…。日本の教会では何があり、今は…。私たちの心臓部である、魂の再生・復活のため、呼吸のように祈り続けたい。

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