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イースター関係 お知らせ

3月30日(金) 受難日礼拝
3月31日(土)お泊り会 ?
4月 1日(日)イースター礼拝
     CS進級式 卵さがし 
    イースター愛餐会(担当青年会)

「夜は近きにあり」 加藤久幸牧師

 レントの日々、園児のA君(3歳児・黄組)が、3月9日(金)急逝しました。2月8日(水)に緊急入院し、拡張性心筋症であると診断されました。この間、先生方は、兄弟の2人(白組・もも組)の登園を受けとめ、A君の回復とご家族の歩みを、祈ってきました。
3月14日(水)家族葬が営まれ、16日(金)訃報を園児に話し、各ご家庭に手紙を出しました。
私自身も、その渦中にあり、心乱れることがあります。そういう状況もあり、この巻頭言を書き始めています。今回も、先月に引き続き、渡辺和子「目に見えないけれど大切なもの」(PHP文庫)から、以下に、引用したいと思います。引用というより孫引きみたいな感じですが…。

1953年から1961年までの間、国連にあって、数多くの国際問題にその手腕を発揮し、名事務総長とうたわれたダグ・ハマーショルドは、スウェーデンの代表的知識人、すぐれた政治家、有能な外交官であったと同時に、深い瞑想の人でもあった。「夜は近きにあり。」という句は、彼の死後発表された日記の中に、何度となく繰り返されている句である。…多分「死の訪れ」を指していたのであろう。そして残念ながらその予感は当たって、彼はコンゴに赴く途中、飛行機事故で56歳にして不慮の死をとげたのであった。
…ニューヨークにある国連本部内の一室が、瞑想室に当てられたのは、彼の発議によるものであった。…忙しさに追われて、仕事を片付けること、doingに心を奪われ、自分の心のたたずまい、being見つめることを忘れがちな私たちに、ハマーショルドは、「行動に先立つ心」の大切さを示した人であった。この「心の静けさ」こそは、私たちが日々の生活の中での問題を理解し、行動を起こすに当たって、結果を「かちとる」ために必要な心のありようなのだ。「夜は近きにあり」という認識もまた、彼の生活を正すものであった。…かくて彼は、捕われない心の持ち主でもあったのだ。
  自由であること、立ちあがって、いっ
さいをあとにして去れること――しか
も、ただの一目もふりかえらずに。「よし」
と言えること。     (1953年)
「いっさいをあとにして立ちされること」に
ついて、彼は、こうも書いている。
  いつでも立ち去る用意のできていない
部屋では、埃が厚くたまり、空気はよ
どみ、光はかげる。   (1950年)
 これは必ずしも、物質的な部屋の状態のを指していったのではなく、いつ訪れるとも知れない「夜」を迎える準備ができていない「心」の状態を指したものでもあろう。
 …ハマーショルドが残してくれた日記は…平凡な生活を営む私たちが日々の生活の中で忘れているものがあることに気づかせてくれる…。
 その“忘れもの”とは、一人の例外もなく、それぞれに「夜」は近づいているということであり、その「夜」をふさわしく迎えるために、与えられている「昼間」を“慎み深く”過ごすということである。  (鵜飼信成訳「道しるべ」を参考)

 引用が長くなりました。イエスは瞑想・祈りの人であったと想います。ハマーショルドはどの宗派にも属さなかったと言われているらしいが、最後になった旅にたずさえていたものに、トマス・ア・ケンピスの「キリストに倣いて」があった…。 
今年のレント、「夜」があることを覚え「昼間」を“慎み深く”過ごすことを、思わされています。

2018年度の歩みを始めるにあたって

加藤久幸牧師

2018年度の教会総会が、本日、礼拝堂で行われます。総会では、昨年度の活動を振り返り、新年度の方針や予算が決定されます。そして、新年度の役員会が組織され、方針に基づいて、教会の活動が具体的に計画され実行されていきます。

 教会の主題や主題聖句が二葉こども園と同じように設定されるようになった経緯は、昨年度の「交わり」4月号(№1014)に触れられています。
また、主題を同じくするようになった年度末の2011年3月31日に東日本大震が起こりました。その後、教会と学園は、自然災害も意識しつつ、「覚えつつ、覚えられている」連帯を大切にして、歩もうとしてきました。

 年度の主題については、各年度の総会資料に短く触れるようにしてきましたが、今年度は十分にはできましでした。
 しかしながら、例年のごとく、今年も総会の日の主日礼拝説教は年度聖句に基づいて行います。
 今年の主題は「イエスさまと共に生きる」、主題聖句はヨハネの手紙一4章11節「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛しあうべきです。」を掲げます。
 詳しくは本日の説教で展開しますが、一つのポイントだけ、紹介しておきましょう。

 今年度の主題聖句に触れて、私たちの中には、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ19・18、ルカ10・27)を思い出す人も多いのではないでしょうか。隣人を愛するには、先

ず自分を愛さなければならない…。果して、私たちは自分を愛することができるのでしょうか…。
 関連して、聖書と教会の歩みを振り返って感じることとして、日本のキリスト教は「神は愛」として、心情的に受けとめることが多いのではないでしょうか。他方、欧米などでは「神は法」として、正義と公平によって人に臨まれるという理解があるように、想われます。

 水海道教会では、2015年度教会総会において、
「水海道教会規則」の制定を決議しました。それまで、教会は「教団」準則を援用し、宗教法人法の「水海道教会規則」によって、教会の運営を果たしてきました。しかしながら、今までも説明してきたことですが、宗教法人法「教会規則」は、宗教法人たる団体の運営については定めていますが、教会の信徒とは何か、牧師(教師)とは何かなどは、定めてはいないのです。これは当然のことであって、従って、教会であるならば、私たちの教会は「教会をこう考える」という自らの教会規則が必要となってくるのが、教会規則制定の背景にある事情です。
それは第一歩というべきであって、本来であれば、「教団」の状況や水海道教会の歩みも踏まえ、長期的な視野に立って、よりふさわしいものにしていく道や運営も考えていく必要があります…。

 2018年度は、水海道教会は大切な歩みをする年度になるであろうと、想います。主題「イエスさまと共に生きる」を大切にして、神さまが(イエスさまが)わたしたちを愛してくださっているから、その愛に支えられて、隣人を愛する歩みへ押し出されていきましょう、と示されています。
 お一人おひとりの歩みに、主の祝福を祈ります。

レ ン ト (受難節)

2月14日(水)は灰の水曜日。この日からイースター(4月1日)の前日まで、40日間のレント(受難節)に入ります(日曜日は数えません)。

 今年のレントからイースターの教会行事は、ほぼ昨年通りとなります。
青年会やCS中心に計画されることと思います。
レントの期間、十字架に架かられた主イエスを覚えて過ごしたいものです。

災害に備える-教会が立てられる     牧師 加藤久幸

「信徒の友」2018年3月号は、「災害に備える」という特集を組んでいます。東日本大震災から、7年が経とうとしています。
今回の特集執筆者は、熊本・大分地震や九州北部水害の被災者・支援者が中心となっています。しかしながら、「日本基督教団会堂共済組合の紹介もするので、水海道の事例を執筆してほしい」と、私のところに依頼がありました。その原稿は実務的とならざるを得ませんでした。
 
今回の巻頭言は、3月号を手にして、災害・教会の活動について、私が感じた感想を記したいと思います。

 
被災を受けた教会・地域は、建物の復旧やインフラの整備もありますが、人々の抱える課題への関与、人々の移動・減少、財政の問題などへの影響は深刻である。川島直道牧師(熊本・錦ケ丘教会)は、「そういう意味で、震災はまだ進行中であり決して過去のことではありません」と、語っています。この言葉は、被災地で聞く言葉であり、

東日本大震災の被災地や常総市においても、同様であると言わざるをえないでしょう。
 
その後、川島師は、「それゆえにまだ震災を振り返る時期でもないのですが、次の災害に備えることも必要です」と続けています。

 
関東・東北豪雨により、私たちが浸水被害(2015年9月11日)を受けてから2年半が経とうとしています。教会の建物の復興は終わりましたが、やるべきことはまだまだたくさんあります。
 
私たちは、日常の歩み・活動が、非日常(災害復興時)の歩みも左右することを、経験しました。日々の教会の交わりが、教会との連帯(地区・教区)が、地域とのつながりが、その時の各々の様(さま)を決することも、学びました。

  主よ、変えられないものを
  受け入れる心の静けさと、
  変えられるものを変える勇気と、
  その両者を見分ける英知を与え給え。
(ラインホルド・ニーバーの祈り)

 
水海道教会も地域もいろいろな課題がありますが、教会としては、神とのかかわりの中で、変えられないもの(変えてはならないもの)を受けいれ、神に備え、人々・教会を整える課題があります。それと共に、自分たちができること・教会が行うべきことを、地域と人々のつながりの中で、変えていく勇気と行動が必要のように思います。
 
教会は、広く、平和や人権、教育や福祉、その他様々な活動に取り組んできました。そして、今、災害に備え、地域のつながりの中で、教会の歩みを整えることが必要であるように、思います。

被災1年目の2016年9月11日の教会アワーでは「あの時わたしは? 今後の歩みは?」を、2年目の2017年9月10日には「非常時の対応」を、話し合いました。それらを受け、整えるべき内容を、役員会を中心に話し合いを続けています。


災害に備えることは、命をどう受けとめるかという問いにつながり、人間に共通する課題であり、教会においては使命に関わる課題でもあります。
 
今回の特集で「防災は地域を知ること」という言葉がありました。教会では「災害復興は神を知ること」につながっていると、言えるでしょうか。 
 
災害という視点から、私たちが、置かれている地域を知り、立てられている使命を受け入れる、心の静けさと勇気を与えてくださいと、祈ります。

この年この時のクリスマス 牧師 加藤久幸

2017年の水海道教会のアドヴェント・クリスマスは、11月24日(日)のイルミネーションの点灯式に始まり、教会では一番早い婦人会クリスマス祝会が12月10日(日)に行われました。

この時期、「牧師は毎年似たような聖書箇所で同じような話をして、さぞ大変だろうな」と思われる方がおられるかもしれません。しかし「歌は世につれ、人につれ」であるように、クリスマスも毎年・来る年ごとに不思議な発見・出会いがあり、「新しさ」を感じています。教会の皆さまも、「この年この時のクリスマス」という一回性があるのではないでしょうか。

今回の巻頭言は、二葉こども園のクリスマス祝会を踏まえて、原稿を書きたいと思います。

二葉こども園のクリスマス祝会は、先週12月15日(金)に行われました。例年この時期はさすがに忙しく、今まで「交わり」に園の様子・原稿を書く余裕はかったように思います(大体は1月号に写真のみ掲載しています。今回の写真は、私が確認用に撮ったため見づらいかと思います。)
 
私は、クリスマスのメッセージは世相を映す「鏡」であると思います。私の場合を振り返ってみると、聖書に忠実に読んでいるつもりでも、その時々の世相が映し出されてくるように思います。
 
一例を挙げますと、イエスの誕生とその家族の歩みを(天変地異による)難民として受けとめたこともあれば、また、時の権力の暴虐のもとに生きる人間の歩みとして読むことも、ありました。

こどもと高齢者、女性と男性、民族と国籍など、各々の視点から、また他の様々な立場から、クリスマスを受けとめる、多様性もあるでしょう。
 
そのような中で、関連施設のある教会は、幼子と共に祝う幸いがあることを、覚えます。園の祝会は「お遊戯会」とならざるを得ませんので、小さい子どもたちは自分の出番が終わるとほっとします。家族のもとに帰り、おしゃべりをしたり、自由に動きます。そういう喧噪の中で「聖劇」が演じられます。クリスマスは「イエスさまのお誕生日」と子どもにもわかるメッセージが中心となりますが、聖劇では聖書の引用があり預言が語られます。
 
毎年の聖劇を見ながら、私はいつも新たな「福音」というか、クリスマスの真実を感じます。喧噪の中でイエスの誕生が告げられる、隣人が(神も)心に入らない世界で神の出来事が進んでいく…。「劇」でありながら、現実を映しているのか?
 
私は、今年の祝会で、こういうお話をしました。イエスも含め、私たちは生まれた時から死ぬまで不思議な力に導かれ守られています。それをキリスト教では「神は我々と共におられる」(マタイ1・23)と言うのでしょう。「我々」というのは、自分と同じように隣人も不思議な力に守られること…。自分だけでなく「ともに」「全ての民が」を信じるところに不思議な力が現れ、導いてくださる…。

 
クリスマスは、つくづく、人間の物語であり、神の出来事であると思います。聖劇は毎年同じ繰り返し(再演)ですが、その物語に触れる喜びを通して、園児も保護者も人間への「福音」に触れることがあるように思います。

先に、クリスマスは世相を映しているといいましたが、現実の世相は真実の「光」に照らされて初めて見ることができるのでしょう。クリスマスが成った事に感謝。神に栄光、地に平和を祈ります。

アドヴェント、クリスマスへ   牧師 加藤久幸  

今年のアドヴェント(待降節)は、12月3日(日)に始まります。そして、水海道教会では、12月24日(日)に、クリスマス礼拝を捧げます。
 
日本はキリスト教国でなないため、12月25日(降誕日)が祝日ではありません。そのため、25日に礼拝や祝会を行うことが困難であり、第4アドヴェントの主日(日)に、クリスマス諸集会を行っています。

そういう事情もあり、今年は、24日の日にクリスマスの祝会をした後、その夜にクリスマス・イヴ(クリスマス前夜)の礼拝をすることになります。何年間に一度はやってくるとは言え、ある種の違和感とともに、24日が大変ハードな日になることは確実です。さて、どんなクリスマスを迎えるでしょうか。楽しみにしたいと思います。 
 
今回は、アドヴェントからクリスマスまでの流れ、そして、クリスマスとは何かということを、少し書いてみたいと思います。

1.水海道教会のアドヴェント
 水海道教会では、10月の最後の日曜日に、収穫感謝礼拝を捧げます。そして、その頃から、教会歴では、「降誕前」となります。礼拝では旧約聖書が読まれ、「創造からキリスト誕生までの神の契約の歴史を振り返りつつ(クリスマスを)準備する」期間となります。
 
私は、信仰者としては、イースター(復活日)やペンテコステ(聖霊降臨日)の方が好きだし、大切に思っています。
 
しかし、教会も、日本の社会も、クリスマスには力が入るようです。様々な要素があるかと思いますが、良い表現でいうと、アドヴェント・クリスマスが「明るく、楽しく、新しい何かを待つ」というイメージがあるからでしょうか。しかしながら、社会でも、ハロウィーンが終わればクリスマスという感じで、慌ただしく行事をこなし、「待つ」という歩みが消滅しつつあるように思います。

2.クリスマスとは?
 水海道教会には、関連施設として、二葉こども園があります。そのことから、こどもと共に祝うクリスマス、本当のクリスマスということが、話題に上ります。では、本当のクリスマスとは?
 
イエスの誕生の物語は、マリアの懐妊も、イエスの誕生も、現実の社会で翻弄され、時に「訝(いぶか)しい」「迷惑・邪魔」者と見られました。良き知らせを告げる羊飼いも「蔑(さげす)まれ」「除外」され、社会の外に置かれた人々です。

クリスマスの物語は、「誕生すら喜ばれない」「存在しても(世の中には)入れられない」、そういう社会の夜・闇の中で、そういう人々が先ず最初の人となり、「全ての民」に「良き知らせ」を信じて伝える物語です。

3.クリスマスを祝うとは?
 各々の歩みを振り返ると、反省や後悔があります。そういう事情もあり、「新年」を意味するクリスマスには人気があるかもしれません。時が来れば改まる(あたらしくなる)との、淡い思いがあるのかもしれません。しかし、現実の様々なことが平等でないように、時も等しく訪れるのではないように思います。
 
「全ての民」が救われる(生かされる)ことを信じ伝え生きる者に、他に代えることのできない「時」が与えられるのでしょう。
 
「恐れるな、わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」(ルカ2・10)この恵みの時、祝福の時を経験して、私自身が「信じる者」に変えられることが、クリスマスを祝うということなのでしょう。そして、信じ祝う者が、伝え歩む者に変えられていきます。
 
祈り備えつつ、その「時」を迎えたいものです。

歴史を知り今を歩む 加藤久幸牧師

ファイル 888-1.jpgここ暫く、牧師の原稿は水害・復興という事柄に触れざるをえず、内容としては数年・数十年という範囲を扱うものでした。しかし、今年は宗教改革500年、「今」を500年というスパンで受けとめ直す、良い機会を与えられていると思います。

「信徒の友」が、9月・10月号に、各々「宗教改革」Ⅰ・Ⅱの特集を組んでいます。皆さんと「宗教改革」「今」を共有するために、特集の文章を引用したいと思います。

1.全信徒が祭司であること(10月号)
ルターは…1520年に書いた『キリスト者の自由』の中でこう述べています。「私たちは祭司である。その意味では、王であるより、はるかに優れているということである。祭司の務めを与えられていることで、私たちは神の前で他の誰かのために祈ることができる者とされる。神の前に立って祈ることは、祭司以外には許されていない。

…〔しかし〕私たちは霊的に、他の人に代わって祈ることができるようにされた。…キリスト者は祭司としては、神を動かす」。つまりルターは、洗礼によってキリストと一つにされた者なので、「キリスト者が祭司であるゆえに、キリスト者も祭司なのである」と言おうとしたのです。この私たちの祈りが神を動かす!(15~16頁、下線付:加藤)

全信徒祭司性という考え方は、近代社会の中で常識となった平等という考えとは直接につながるものではありません。…むしろ私たちひとりひとりに神から与えられた使命の違い、賜物の多様性を自覚させてくれます。

…プロテスタント教会はこの全信徒祭司性を説明するときには、常にそれに続いて「神からの召命」について力強く語ってきました。「召命」という言葉を聞くと、聖職者となることへの神の特別な召しのことだと考えるかもしれません。けれども宗教改革者たちの教えの特徴の一つは、すべての人に、そしてすべての人がなしている仕事、それどころか親、兄弟、友人などの関係もまた神からの召命だという考え方です。それらは皆あなたにしか担い得ないこととして神があなたにだけ与えた召命なのだと説明したのです。(16頁、下線付:加藤)

2.私たちはここに立つ(9月号)
 宗教改革の原理に信仰のみ、全信徒祭司性といったことが言われますが、最終的には「聖書のみ」に集約されていくような気がします。聖書のみから神の言葉を聞く。ルターが残したところの本意は「そこに固く立つ」という形で時を超えて残されました。日本の教会を建てたのもそれですが、そこから今わたしたちが立つところを見直すべきではないかと思います。(25頁)
 
「聖書のみ」が…多様性を誘発し、アメリカにおいて多様に広がっていきました。日本では諸教派乱立という状態が、何となく悪いことであるかのように受け止められることがあります。多様であることそのものが豊かさであり、その上で一つとなること、そのような文化になれていないのではないでしょうか。「聖書のみ」との言葉が画一的理解へと進むのではなく、神の言葉に真剣に聞くからこその多様な読み方の豊かさへと導かれる、そこに真のエキュメニズムがあるのではないか」(26頁、下線付:加藤)

3.感想
 今回の特集は歴史を振り返るよう促され、しかも「排除されていった人たち」に注目しています。
 ルターは、教会から破門され帝国から排除され、ザクセン選帝侯〔領邦国家〕の保護を受けました。
 他方、カルバンのジュネーブ市の宗教改革運動は、異なる者たちを処刑・断罪していきました。
 宗教改革の光と影ということが言われますが、
「信徒の友」9月号は次のように指摘しています。

「不寛容さが似ている分、宗教改革の歴史は参考になります。今起きていることはキリスト教の歴史を見れば必ず起きているのですから、それに彼らはどう対応したのかがわかっているのですから、この対応はしたくないという逆の参考になることもあります。」(27頁)

4.まとめとして
 私たちは、「聖書のみ」というと、みんなが一つ・一致すると考えます。しかし、今回の特集は、「聖書のみ」は多様性を誘発すると、指摘します。「神の言葉に真剣に聞くからこその多様な読み方の豊かさへと導かれる」のです。そして、今は細かに語れませんが、「聖書のみ」に集中していくと、聖書に、聖書の世界そのものに多様性が示されていると思います。そして、神が「多様であることそのものが豊かさであり、その上で一つとなること」を示されているのではないかと思わされます。
 
「ここに固く立つ」というのは、私たちが立っている制度・文化・国、各々の時代や状況ではないでしょう。しかしながら、私たちは、この世を、地上を旅する者として、与えられた場所・時間や各々の立場に立たざるを得ません。その時、私たちは、「すべての人がなしている仕事、それどころか親、兄弟、友人などの関係もまた神からの召命だ」と、信じ受けとめるのです。この世的には光と影が行き交いますが、信じる者は、神の「召し」に立たされ〔立つこと許され〕、そこが恵みであり祝福であると受けとめることができるのです。

〔人間は完全にはできませんが、〕召してくださった方が完全に応えてくださると信じ、立つことができるのです。昔も今も、そして、未来も、神が動いてくださると願い、私たちは神の前に立って祈ることが許されています。

神の前に立って祈ることにおいて、私たちは「一つにされた」者であり、「一つにされていく」者なのだと、思います。それ故、「この私たちの祈りが神を動かす!」と言い表すことができるのではないでしょうか。

【注】今号は「牧師室の窓」をお休みします。

幼稚園 募集活動

幼稚園 募集活動が始まりました

8月1日 新年度パンフレット(願書)配布開始
8月22日 入園説明会
9月19日 願書受付開始
 
お知り合いのご家庭にご案内下さいますようお願いいたします。

召天者記念礼拝の日に 牧師 加藤久幸

今年の召天者(永眠者)記念礼拝は、本日8月13日に行われます。私自身は、「召天者記念礼拝」について、まとまった原稿を書いたことがないと思います。

記念礼拝の案内を兼ねた「墓地委員会通信」には、生と死に関するエッセー風の文章を、毎年書いてきました。それらは、絵本の感想であったり、随筆の場合は舌足らずでもあったと思います。

今回は、補う意味で、「交わり」にも、「召天者記念礼拝」について原稿を書かせていただきます。ただし、それは、聖書的な教えではなく、生と死に関しての、私の徒然なる思い(感じ方)です。

先ず、「召天者」という言葉について、です
▷「天」は神さまのいるところ、神さまの力が現れるところです。死んだら天国に行くと考えられがちですが、神さまに召される(招かれる)という感じでしょうか。そこで何をしているか? 神を礼拝している、神さまと交わっている。▷天(国)に行くというより、神さまが来てくださる。「み国を来たらせたまえ」とは、この地(上)に天(国)が実現することを、願っているのです。▷そう感じるようになったのは?

 一つは、この地(上)の「地獄」を感じたからではないでしょうか。このような状況では誰も生き延びることができない、そう感じるような「深み」を覗き見たのかもしれません。そして、「万が一『天国』があるなら実現を!」と、〔神を知らないまま〕願ったものでした。
それは、若い頃のネパール・インド体験と、無縁ではありません。渡航前「かの地では鳥葬があるよ」と脅かされた-実際見ることはなかったが-。しかしガンジス川の畔では「この魚は水葬された人を餌にしているかもしれないね」という話を聞きながら、日毎の糧をいただきました。大げさかもしれませんが、その旅は、地球規模での、自然の厳しさ・飢え・難民を垣間見させられる体験でもありました。
 人が招き寄せる(加担する)貧困・差別・紛争と相まって、人間が抗うことが困難と思える世界の厳しさ(「地獄」)を感じたのでしょう。その時に、私も「祈り(神を待ち望む)の原.風景」を見たのでしょう。

今年の「墓地委員会通信」は、真に、舌足らずでした。私たちには、誕生と死は、どうすることもできない現実です。しかし、私たちは、自らの命も死も世界も、自分(たち)に決定権があるかのような動きを拡散させています。もちろん、私も、自分の人生は自分で決めるし、自分の歩みを人のせいにも神のせいにもしたくないと考え、歩んでいます。
しかし、〔人が考えるような〕神も仏もないような世界、人間が招来した(加担した)厳しいこの地(上)に「主よ来てください」と願うのは、人間の傲慢・倒錯した姿なのでしょうか。

 上に記した若い頃の体験の後も、私は、数多くの人の死と生に関わってきました。その出会いを通して、脆く・弱く・危うい存在でありながら、いえ、そういう存在であるからの尊厳として、神を呼び求め命を讃美しながらの、生と死がありうるのだということを、学びました。
真に「ねがわくはみ名をあがめさせたまえ。み心の天になるごとく地にもなさせたまえ」です。

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